50音順    検 索

●綿織物業 めんおりものぎょう

AD 

 木綿(もめん)の原料の綿花は15世紀に入って朝鮮半島で広く栽培されるようになり,応仁の乱ごろから兵衣用として日本に広く輸入されるようになった。保温に優れ肌ざわりのよい木綿は従来の苧(お)・麻(あさ)系繊維よりも格段に優れており,戦国時代以降,日本でも栽培され,普及した。

【江戸時代の綿織物】江戸時代に入ると摂津・河内・和泉(いずみ)・大和など畿内を中心に伊勢・尾張・三河・播磨(はりま)などに急速に綿花栽培が拡大した。幕府は1628年(寛永5),「百姓の着物の事 百姓分の者は布,木綿たるべし」と法令をだしていたので,この時点で木綿は農民衣料として定着していたとされる。ところが高級な織物である絹は西陣を中心として桐生・足利・秩父など関東・東山道地帯に広く発展するようになるが,綿織物業は畿内を中心とする綿花作付地帯と重複していた。元来,庶民衣料だけに,農家の自家生産として織布される形が多く,本格的機業地形成は遅れた。ただし,綿栽培は干鰯(ほしか)など金肥を多量に投与するほか,干ばつ時の灌水・収穫時の労働量が多いなど,稲作の労働の2倍もかかり,上層農家むきとされた。やがて18世紀後半から関東地方も綿織物業の産地となり,木綿織から出発し絹綿交織に進んだ足利なども有名となった。さらに尾西綿織物地帯は縞(しま)木綿でマニュファクチュア(工場制手工業)経営も出現させた。この農民的商品で領主的支配に対抗した。大坂市場の独占を崩していた在来綿織物の存在が近代化の発展を約束した。

【明治初期から中期まで】1874年(明治7)の『府県物産表』によると織物生産額は全工業生産額の15.5%を占め,酒類についで第2位にあったし,『主要工業概覧』でも1912年(明治45)で21.7%を占め,第1位にあった。しかし,綿・絹織物とも幕末は不振であった。工場生産による廉価な綿織物が多く輸入されたためであった。しかし,明治10年代に入ると,原料糸に廉価で品質の斉一な輸入綿糸を使用することによって,比較的見栄えのよい織物を比較的安価に製造することが,全機業地に及んだため,また生糸と輸入綿糸から交織物をつくることで,しだいに発達の気運となった。1873年(明治6)ジャカードおよびバッタン機といった洋式機械がもたらされた。絹織物には絞織り装置機のジャカードが,綿織物には飛杼(とびひ)装置機のバッタンが導入され,明治中期までに主要な機業地に普及した。わが国綿紡績業の発達で国産紡績糸も用いられるようになった。明治20年代には東京・京都・大阪に多数の力織機を設備し,蒸気力による広幅綿布の生産を開始した。1890年(明治23)に大阪紡績会社は大阪織布会社を買収して分工場とし,紡績会社による織布兼営の道を開いた。

【明治後期から大正初年まで】明治30年代から1913年までに織物生産額は3倍となり,明治30年代には絹織物生産が第1位にあったが,40年代以降は広幅綿布を中心とする綿織物の輸出が伸び,綿織物は絹織物をこのころから抜いて第1位となる。綿織物の主要産地は愛知か大阪が首位を争い,3位は和歌山,埼玉・愛媛・三重・兵庫が4,5位で明治前期と大差ない。また,輸入の力織機に代わって綿織部門では遠州木綿の産地出身の豊田佐吉が小幅木製動力織機を1886年(明治19)に発明して以来,輸入機を購入できない層に力織機を普及させた。ただし,明治前後期を通じて生産構造は古さを残していた。すなわち,織元経営者は原糸の準備加工工程の一部を自家経営内で行い,ほかを外部の賃加工に出し,製織工程の主要部分を賃織業に依存していた。

【昭和以降の動向】1934〜39年(昭和9〜14)で日本の繊維は各種類で世界一となる。敗戦後はアメリカ綿加工と1950年(昭和25)の朝鮮戦争ブームで,1952年に早くも綿布・レーヨン・スフ各々の輸出高は再び世界一となり,織スフ織物業者は綿花商から成長した総合商社に系列化された。

〔参考文献〕楫西光速編『繊維』上,1964,交詢社出版局

山口和雄編『日本産業金融史研究 織物金融編』1974,東京大学出版会