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●メフメト2世 メフメトにせい

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1432〜1481 オスマン帝国第7代のスルタン(在位1444〜46、および1451〜81)。父王ムラト2世の第4子で、奴隷女に産ませた。オスマン帝国の真の繁栄を築いた人物であり、トルコ同胞によってファーティヒすなわち“征服者”と尊称された。

【在位1444〜46時代】12歳のとき、出生地のエディルネ(旧アドリアノープル)で王位の継承を受けたメフメト2世を待っていたのは、苛酷な政治的試練だった。すなわち、幼帝組しやすしとみたハンガリー・ローマ法王・ビザンツ帝国そしてヴェネツィアの4者が共謀して十字軍を組織したこと、および帝国内部の勢力争いから、それぞれ幼帝の権益を守ると称する有力貴族間の抗争が表面化したことである。1444年9月、十字軍の遠征隊がダニューブ川を渡ったとの報に接したエディルネでは、キリスト教系宗派の大虐殺がおこり、そこは騒乱の巷と化した。十字軍のヴァルナ攻撃が開始された時点で、前王ムラト2世は隠遁地のブルサから急きょ引き返して兵を指揮、その結果、同年10月、ヴァルナでオスマン帝国が勝利して混乱は収拾された。このときメフメト2世は王位を維持したものの、コンスタンティノープルの統治権をめぐって幼帝をそそのかす奸臣が現れたため、1446年5月、ムラト2世がエディルネに戻って王位に復することとなった。メフメト2世の治は1451年、父の死に始まる。このとき、幼弟を殺して帝国将来の禍根を絶とうとしたのが先例となり、以後オスマン帝国では残酷な兄弟殺しが繰り返しおこった。即位後、彼は直ちにルーメリ=ヒッサルを築いて、コンスタンティノープル攻略を準備した。ヨーロッパ諸国はこの危機に関心を示さず、神聖ローマ帝国フリードリヒの呼びかけに、ヴェネツィアが応じて海軍を派遣しただけであった。その結果、オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服した。ビザンツ帝国は滅び、オスマン帝国は外患を除くことに成功した。また、国内ではトルコ貴族の勢力を弱め、スルタンの権力は強化された。メフメト2世は、宮廷奴隷(カプクル)を重用し、専制的な官僚国家体制を確立した。そして対外的には、セルビア(1459)・ギリシア(1460)・ボスニア(1464)・ヘルツェゴビナ(1467)を併合してバルカンに勢力を拡大した。また、クリム=ハン国を保護国とし、黒海の海上権をおさめた(1461〜75)。アナトリアではカラマン侯国を併合し、小アジアを確保した。さらに東方に対して遠征を行ったが、その途中で没した。このようなたび重なる戦争と新首都イスタンブール建設のため、オスマン帝国の財政は悪化した。カプクルとトルコ貴族の抗争も激化し、その治世の末期には、オスマン帝国には多くの難問が生じた。メフメト2世は残忍で狂信的であったともいわれているが、合理的思考と決断力をもった人物で、領内のキリスト教徒にその自治体であるミレットを組織させたり、法典『カーヌーン=ナーメ』を発布したりして、非凡な政治力を発揮した。学問・文学・芸術にも深い理解をもち、異文化に対して寛容であった。

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