●メディナ
アジア サウジアラビア王国 AD
サウジアラビアでメッカとならぶイスラームの聖地。預言者ムハンマドの墓廟,それを含む預言者モスクがあり,同時にイスラーム初期の遺跡が数多くある。メッカ巡礼者の多くが立寄るため,巡礼期には訪問者で賑わう。平時は人口約20万(1976)といわれる。イスラーム登場以前のこの町の歴史はよく知られていない。この町はイスラーム以前ヤスリブと呼ばれていたが,これは2世紀のプトレマイオスの地図中にみられる Yathrippa にあたると同定する学者の説もある。古くから小規模な農業が営まれていたらしいが,預言者ムハンマドがここに移り住む以前ここでは,アウス族・ハズラジュ族の2部族が,ユダヤ教徒の集団をも交えて長い部族抗争を行っていた。戦いに倦んだこの町の人々は,適当な調停者を求めていたが,そこで白羽の矢をたてたのが,イスラーム布教当初,メッカで迫害を受け,移住先を探し求めていたムハンマドであった。彼のすでに亡き母親は,この町の出身であり,同時にその新たな教えの思想は,争いの調停に役立つであろうという目算から,メディナ人士は彼を迎え入れることに同意する。
622年ムハンマドはメッカを離れ,追手から逃れて500km北のメディナに聖遷(ヒジュラ)する。イスラーム世界では,これを固有のヒジュラ暦元年とするが,それはこの時点で信者たちが,初めてイスラーム共同体を運営することが可能になったためである。そしてこの町は以後預言者の町と呼ばれるようになる。メディナはその省略形である。
聖遷直後メディナは,強力なメッカ勢を敵にまわして,しばしば窮地に立たせられる。しかし移住者ムハージルーンと,メディナ人士アンサール(助力者の意)はたがいに義兄弟の契をかわすなど,固く団結を守り,ムハンマドのたぐい稀な政治力をもって難局を克服することができた。イスラーム初期において,高い理想に燃え,危機をのりこえた信徒たちの美しい言動は記憶にとどめられ,高邁な先例としてのちの信徒たちの鑑となる。現代のムスリムが回復しようとするのはこの時代の精神なのであるが,かつて模範的な社会が営まれた歴史的舞台となったこの町は,それゆえにいつまでも敬虔な人々を誘いつづけているのである。 ムハンマド没後もこの町は,正統第4代カリフ=アリーが656年クーファに都を移すまで,イスラーム帝国の首都であった。その後メディナは一地方都市となったが,ムハンマドにより最初に建てられたモスク,上述の預言者モスク,預言者の墓をもつこの町は,メッカ・イェルサレムとともにイスラームの3大聖地の一つとなり,貴顕の士を集めている。たとえばアリーの没後息子のハサンは,カリフ職を断念してここに隠棲している。またその弟フセインがカルバラーで殉教したのち,その妻や息子たちはここで生活している。 ウマイヤ朝の時代には,この町はダマスクスから派遣される太守によって統治されたが,第2代ヤジードの代にメディナ人士はイブン・ズバイルのもとで叛旗をひるがえし,町に城壁をめぐらせ,濠を掘って防衛にあたった。カリフは何度か兵を送るが鎮圧することができず,683年ようやく町の北ハッラで行われた戦闘で勝機をつかみ,ここを平定することができた。この事件以降メディナの政治的地位は一気に低下している。ウマイヤ朝末期の747〜748年には,アブー・ハムザの率いるハワーリジュ派がこの町の占領を企てているが,マルワーン2世の送った軍勢によって打ち破られている。
アッバース朝に入ると,アリーの息子ハサンの曽孫にあたるアブドッラーの息子ムハンマドは,762年にこの町を占拠してカリフを宣言し,自らマフディーを名乗っている。その際イスラーム法学で高名なマーリク・イブン・アナス,アブー・ハニーファのほか少なからずの人々がこれを支持していた。しかしカリフの派遣したイーサー・イブン・ムーサーと4,000人の軍勢により制圧された。またその20年後に,再びアリー一族のフサイン=イブン=アリーがアッバース朝に叛旗をひるがえし,メディナ攻略を企てたが,これも失敗している。ちなみに彼は,アリー一族の殉教者と崇められた。
カリフ=アル=ワーシクの時代になるとこの町は,たび重なるベドウィンの襲撃に悩まされるようになった。このカリフは兵を派して侵入者たちの掃蕩にあたり,市民によって敬愛されたという歴史の一コマもある。
エジプトに勢力を張ったファーティマ朝がヒジャーズ地方の聖地の領有を意図しはじめると,メディナ人士は974年に,周囲に壁をめぐらして守備を固めた。1145年には,ザンギー朝の宰相がこの壁を補修しているが,市民の相当数がこの壁の外側に居住していたため,ベドウィンの襲撃にさらされていた。そこでシリアのザンギー朝の君主ヌールッ=ディーン・マフムードは,塔と城門を含む第2の壁を築いて,市民の安全をはかった。現在の壁は,オスマン朝のスルタン,スライマーン・イブン・サリームにより建造され,それに添って溝がめぐらされている。
数世紀のあいだ平穏がつづいたあと,19世紀になると劇的な事件が生ずる。1804年にワッハーブ派の過激派がこの町を征服し,町の財宝を奪い,預言者の墓へ巡礼を禁止したといわれている。墓を蔽う天蓋を破壊しようとする試みは,抵抗にあって失敗している。その後ムハンマド・アリーの息子,トゥスーンがこの町を奪回しており,1815年アブドッラー・イブン・サウードは,聖地に対するオスマン朝の主権を認める条約に調印している。その後1908年には,ダマスクス―メディナ間を結ぶヒジャーズ鉄道が開通した。第一次世界大戦に敗れたオスマン・トルコは,1918年にメディナを撤退しており,メッカ・メディナの両聖地はワッハーブ派の手中に入った。そして現在では1932年に建国されたサウジアラビア王国の領有するところとなっている。
石油経済の恩恵を受けて,サウジアラビアの諸都市は急速に近代化され,メディナもその例外ではないが,地理的条件などからそれほど画期的な変化もなく,いくつかの学術的機関を中心に,平静なたたずまいを残している。