●メディチ家 メディチけ
ヨーロッパ イタリア共和国 AD
13世紀にフィレンツェ近郊のムジェロから移住してきた新入りであった。同世紀末には大ギルドのメンバーとして一族の名前が記録にみえる。1296年には一族のアルディンゴが正義の旗手に就任している。しかし14世紀中ごろにはかなり落ちぶれているのが一族のフォリーニョの記録から推測できる。そのなかで本格的にフィレンツェの指導者として名前があがりはじめるのはサルヴェストロからで,1378年6月“正義の旗手”として勤めながら,チョンピの乱に直面し,横暴な御大家と対決し,一挙にメディチの名をあげた。彼はこのとき一門が富裕層にもかかわらず,小アルテにその支持層を得た。以後小アルテの面々はメディチ家に頼ることによって自分たちの利益を守ることになった。一面ではこのときからメディチ家はフィレンツェの御大家から敵意の目でみられる一門にもなった。コジモの父ジョバンニ(1360〜1429)がいつも心にかけ,和らげようとはかったのは,この御大家の疑いの目であった。サルヴェストロとジョバンニは遠い親戚である。ジョバンニは商才にたけ,慎重で世慣れており,公の目につくことを巧みに避けながら,銀行業で急速に成長した。彼の時代になってイタリア各地に支店網がひろげられ,外国に駐在員事務所が開かれた。そして教皇庁にくい込み,大銀行業に成長した。彼には二人の息子があった。一人がコジモ(1389〜1464)で,もう一人がロレンツォである。コジモから名実ともにフィレンツェでメディチ家の時代が始まる。人をみる目に優れていたコジモは,銀行業に商業に,父親以上の能力を発揮した。芸術家や学者の保護・援助にも多大の支出をし,公共の建物も数多く建てた。政治面ではメディチ派で完全に固めることに成功し,マキァヴェリの言によれば,〈……浮沈の激しい,……あれほど動きの激しい,……あんなに信頼の置けぬ人々のなかにいながら,30年間もつづいて,国家の元首の地位にとどまっていた〉のである。コジモを継いだのはピエロである。病気がちで,父ほどの才能に恵まれず,5年間の統治のあと,ロレンツォ(1449〜1492)とジュリアーノの二人の息子を残して,1469年に死亡した。兄ロレンツォはのち大ロレンツォと称されるが,この1469年にはまだ19歳の若者にすぎず,ジュリアーノは15歳で,とても政争の激しいフィレンツェを背負って立つことはできず,トマソ=ソデリーニが後見に立った。そして1478年のパッツィ陰謀事件のあと,ジュリアーノは暗殺されたが,ロレンツォは辛くも逃れ,自立した。これが転機で,1480年の国制改革をへて,以後無冠ではあるが,実質的にフィレンツェの君主になった。文化人や芸術家の保護,公共の建物の建設の点では祖父コジモほどではなかったが,ロレンツォ自身が詩人として優れ,文化活動のリーダーであった。銀行家・商人としては十分ではなかった。彼の代にはメディチ銀行は完全に衰退の方向に進んでいる。対外的には彼は大きな役割を演じた。まがりなりにも彼の時代,イタリアの平和が維持できたのは彼の勢力均衡策によった。彼には3人の息子がいた。長子がピエロ2世で,2年間の統治のあと(1494),フィレンツェを追われた。次男のジョバンニは聖界に入り,のちレオ10世(在位1513〜21)として法王になった。三男はヌムール公ジュリアーノである。1512年ソデリーニ政権の崩壊でメディチ家はフィレンツェに復帰した。皇帝カール5世の援助と,枢機卿ジョバンニの助力によった。ジョバンニは翌年法王になり,枢機卿ジューリオ(叔父ジュリアーノの遺児)を自分の代理としてフィレンツェに送った。このジューリオは1523年法王(クレメンテ7世 在位1523〜34)に選ばれたので,ヌムール公の息子イッポーリトとピエロ2世の孫アレッサンドロを共同統治者としてフィレンツェに送った。1527年のカール5世のローマ掠奪でクレメンテ7世はサン=タンジェロ城に捕われ,その間隙に乗じてフィレンツェでは再びメディチ家の追放が行われた。しかし,再びアレッサンドロの手に落ちた。そのアレッサンドロは1532年,世襲のフィレンツェ公として叙され,ここに長くつづいたフィレンツェ共和制は幕を閉じた。アレッサンドロが暗殺(1537)されると,コジモ(祖国の父)の弟ロレンツォの系統にフィレンツェの統治権は移る。その初めがコジモ1世(1519〜1574)で,1569年から初代トスカナ大公になった。この一門が1737年のジャン=ガストーネ=デ=メディチまでつづいたのである。仏王アンリ2世の妃カテリーナ=デ=メディチはアレッサンドロの異母妹であり,仏王アンリ4世の妃マリア=デ=メディチはコジモ1世の孫である。