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●メッテルニヒ

ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1773 神聖ローマ帝国

 1773〜1859 オーストリアの政治家・宰相。ストラスブルクとマインツで法律を学ぶ。1801年ドレスデン駐在,1803年ベルリン,1806年パリ駐在大使をへて,1809年外相となり,皇女マリア=ルイゼとナポレオンとの結婚を実現させ,現実的な外交政策を展開。1813年6月オーストリアを対フランス連合に参加させ,ナポレオンのフランスを敗北に導き,1814年ウィーン会議を主宰する。会議の基調の復古主義・正統主義の政治の中心となって活動し,ヨーロッパの国家の体制(ウィーン体制・メッテルニヒ体制)の維持につとめた。1821年宰相となる。ドイツ連邦の成立にもイニシアティヴをとり,ドイツ自由主義・国民主義の運動を1819年カールスバートの決議,1834年ウィーンでの一連の会議の決定で抑え,反動のシンボルとなって,1848年の三月革命ではロンドンへの亡命を余儀なくされた。1851年ウィーンに戻り,政治影響力をもつよう努めた。