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●メッカ

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 アラビア半島の町。アラビア語ではマッカ。イスラームの預言者生誕の地で,カーバ神殿のあるイスラーム教の聖地。アラビア半島の西,紅海に沿って南北に走る山脈の西斜面の谷間にある。年平均降水量は157.2mm(1966〜70年平均)で,もとより天水農業は期待できない。ただ,谷間であるため,比較的地下水脈には恵まれ,多くの井戸がある。現在の40万人を超える人口にとっては水は不足で,周辺の谷からも水を引いているが,数万人規模の人口を養う水はあった。夏の気温は,最低32度,最高40度で,冬でも最高気温は30度を超える。そのため,暑気を避けて幼児を砂漠の遊牧民に里子にだす習慣がイスラーム前のメッカ住民のあいだにあり,また今も昔も,メッカ市民の上流は,3日行程離れた高原の町ターイフに別荘をもつ家が多い。町の中心はカーバと呼ばれる神殿で,現在ではそれは聖モスクと呼ばれる巨大な建造物の中庭にある。町を中心にして一辺が20km程度の菱形の地域が聖域とされていて,そこにはイスラーム教徒以外の異教徒の立ち入りは禁じられている。毎年,イスラーム暦の12月にこの聖地に巡礼者がくる。近年では巡礼者の数は200万〜300万人規模となっている。メッカは現在,サウジアラビア王国のメッカ州の州都であるが,そのような政治的意味よりは,全世界のイスラーム教徒が毎日礼拝する方向,また巡礼の目的地としての,いわばイスラーム教徒にとっての世界の中心としての意味がはるかに大きい。町の起源は明らかでない。後世のイスラーム教徒の説話では,天地創造に際して最初に創られた大地はカーバ神殿のある地であり,天国を追放されたアダムが地上に降りたのはメッカのアブー=クバイス山で,アダムとイブが再会したのがメッカ郊外のアラファート山である。アダムとイブの墓はいずれもメッカの郊外にある。カーバはアダムによって建立されたが,それがノアの時代の大洪水で流され,聖なる黒石はアブー=クバイス山に保管された。やがてアブラハムとその子イシマエルがカーバを再建し,聖なる黒石を再びカーバ神殿にはめ込んだ。このように,説話では,メッカはまさに大地の中心なのである。説話はともかく,現実のメッカもかなり古いと考えられ,南アラビアと地中海を結ぶ交易路上の一つの中心地であったようである。カーバ神殿のかたわらにあるアブラハムの立ち所と称される石には古代南アラビア文字の碑文があったと考えられ,また,2世紀のプトレマイオスの『地理学』にみえるアラビアのマコラバという町は,古代南アラビア語のマクラバ(聖地)の転訛でメッカのことと推定されているように,古くは南アラビア文明と関係の深い町であったようである。ともかく,7世紀のムハンマドの時代の人々にとっては伝説的な昔から,メッカにはカーバ神殿があり,メッカを中心とする地域は聖地であった。ムハンマドが属していたクライシュ部族がメッカに住むようになったのは,彼の5代前の祖クサイイの時代からである。1代を30年程度と考えれば,5世紀の前半のことであろう。彼は,南アラブに属するある部族の,カーバの守護者集団からその守護権を奪い,彼らを追放し,自分の身内つまりクライシュ部族の人々を集めてメッカに定着させたのであった。その後,クライシュ部族は国際的商人として大発展するが,メッカはその基地として,また聖地として全アラビアに知られる存在となった。ムハンマドはこのような商業都市・宗教都市メッカで宗教活動を始めた。彼はカーバ神殿の主アッラーが,キリスト教やユダヤ教のいう唯一にして天地を創造した神の名であると理解し,自身はそのアッラーから遣わされた預言者であると認識した。622年,メッカを棄てメディナに移住したムハンマドは,じきにそこにいたユダヤ教徒と衝突した。彼はユダヤ教徒との論争の過程で,自分はユダヤ教徒とアラブ人の共通の祖先であるアブラハムの信仰と同じ信仰を説いている,という自覚をもった。メッカのカーバ神殿はそのアブラハムが再建したのである。彼と彼の信仰にとって,メッカは再び重大な意味をもつようになった。彼はメディナによって,メッカに住む異教徒と激しく戦いながらも,メディナの信者に,メッカのカーバ神殿の方向にむかって礼拝するように命じた。また628年には,未だ異教徒の住むメッカに巡礼を試みた。このときは巡礼はできなかったが,メッカの異教徒とフダイビアの和議を結ぶことに成功し,その和議にもとづいて翌年巡礼した。この巡礼は,イスラーム暦12月のいわゆる大巡礼ではなく小巡礼であった。その翌年の630年,ムハンマドは武力でメッカを征服し,カーバ神殿の内部に祠られていたさまざまな神々の神像を単なる偶像に過ぎないとしてすべて破壊し,カーバ神殿をその主アッラーだけの神殿とした。その年の巡礼月にはカーバ神殿への異教徒の巡礼を許したが,その翌年からは異教徒による巡礼をいっさい禁じ,メッカの聖地とカーバ神殿をイスラーム教徒だけのものとした。さらにその翌年,死の直前に,ムハンマドはイスラーム教徒の巡礼団長として初めての,そして最後の巡礼をした。ムハンマドは,メッカを征服した後も,ひきつづきメディナに留り,メッカを政治的な中心地として選ぶことはなかった。彼の死後も,第3代までの正統カリフはメディナにいて,メディナが新興のアラブ大帝国の首府であった。しかしメッカは,聖地でありつづけた。イスラーム前にあっては,アラビアの各地に聖地は無数にあり,メッカに匹敵する重要な聖地はほかにいくつかあった。またアラブ人のすべてがメッカを聖地として尊んでいたわけではなく,メッカを無視する人も多数いた。ムハンマドは晩年に,アラビアのほかのすべての聖地を実力で破壊していた。大征服の時代,メッカは,今や広大な地域の征服者となっていたアラブ人の唯一の聖地となり,征服地のいたるところでアラブ人はメッカにむかって礼拝し,毎年巡礼に来るようになった。その後ウマイヤ朝とアッバース朝のもとで,メッカはカリフによって手厚く保護される聖都であった。いつしか,メッカとメディナはイスラームの「2聖都」と呼ばれるようになっていた。683〜692年にかけて,イブン=アッズバイルが,ときのウマイヤ家のカリフに対抗して,メッカに拠ってカリフと称したこと以外は,メッカは政治的に意味をもつことはほとんどなかったが,信仰面での世界の中心としての地位は微動だにしなかった。アッバース朝が衰えをみせ始めた10世紀半ばから,メッカの市政は,ムハンマドの血をひくハサン系のシャリーフ(ムハンマドの子孫の称号)が代々担当した。このシャリーフ政権は独立していたことはまれで,おおむね,エジプト・シリアを支配していた勢力であるファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝の保護下にあった。1517年,オスマン朝がシリア・エジプトを征服すると,メッカのシャリーフ政権もその保護下に入った。オスマン朝の支配者はこれ以後「2聖都の保護者」という称号を好んで用い,イスラーム世界の中心勢力であることを内外に誇示した。

 第一次世界大戦中,当時のメッカのシャリーフ=フサインはイギリスと結んでオスマン朝からの全アラブの独立を宣言し,メッカの小政権が全世界から注目された。フサインの軍はシリアのダマスクスを攻略し,フサインはメッカで全アラブの王と称し,のちには全イスラーム世界のカリフと称した。彼の子はトランス=ヨルダンとイラクの王となり,新王国の建設者となった。しかしフサイン自身は,中央アラビアのサウド家との争いに敗れメッカを追われた。1924年以降メッカはサウド家の王国(サウジアラビア)の一部となっている。1979年,メッカのカーバ神殿にイスラーム過激派が立てこもって流血の事件をおこし全世界の耳目を集めた。また全イスラーム諸国元首会議がメッカで開かれたりして,メッカは巡礼者の町以上の意味を,今日改めて,もちはじめている。