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●メキシコ

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 正式国名は,メキシコ合衆国。ラテン=アメリカ諸国のなかで最北端にあり,アメリカ合衆国と国境を接する唯一の国。日本の約5倍の国土をもち,北米ロッキー山脈の延長であるシェラ=マドレ=オクシデンタルとシェラ=マドレ=オリエンタルの2大山脈が国土を南北に貫くため,高地が多く,全体に亜熱帯ないし熱帯性の気候が多いが,山地には寒冷地帯もある。アステカ・マヤのような高文化民族に代表される土着文明の背景をもつが,16世紀初頭のスペイン人の侵入と征服によって,イベリア的文化の強制的移植を経験し,19世紀初頭の独立と開国以来今日まで先進欧米諸国から政治制度・経済体制・思想などを摂取してきた。国民の6割以上がメスティソと呼ばれる白人とインディオの混血系であるが,ヨーロッパ的な文化とともに,土着文明の栄光との一体感も強くもっている。1910年からのメキシコ革命は,インディヘニスモの名で呼ばれる土着の文化とインディオの復権を可能にし,今日のメキシコ人のナショナリズムを確立した。今日より1世紀半以上も前に政治的独立を達成したのにもかかわらず,経済面では,植民地時代よりもむしろ1次産品の輸出国としての性格を強めてきた。革命による混乱のためもあって,輸入代替方式の工業化が本格的に進展したのは,第一次世界大戦後のことである。今日メキシコは,世界の発展途上諸国のなかでも,ラテン=アメリカのなかでも,ブラジルと肩を並べる準工業国・中進国である。その歴史的経験から,メキシコ人は,発展途上諸国あるいはいわゆる第三世界との連帯感を強くもつことが多いが,文化的には欧米諸国に親近感をもち,政治・経済の次元ではとくに近年,対外債務問題解決のため西側先進諸国と協調的な姿勢をとっている。1970年代メキシコが石油輸出国に転じたのちも,石油輸出国機構(OPEC)には加入しない方針を貫いてきた。

【地理的環境】メキシコの国土は豊饒の象徴である角コルヌコピアの形をしている。総面積196万718平方km。前述の2大山脈が北から南に下るにつれて,しだいに間隔を狭め,首都メキシコ市の南で V 字状に合流する。これらの2大山脈のあいだの三角形の地域の標高は,南に行くにつれて高まり,メキシコ市では,海抜2,250mになっている。メキシコ市をほぼ中心とする高原盆地は,通例メキシコ渓谷と呼ばれるが,正確には,水の作用によってできたのではなく,メキシコ盆地と呼ばれる。このほかにも,グアダラハラ盆地(海抜1,600m)・トルカ盆地(海抜2,800m)・プエブラ盆地(海抜2,200m)などがあり,それぞれ大都市を発達させている。北部は,米国南西部と連続する半乾燥地帯や砂漠が多く,交通の要衝モンテレイは,製鉄業などをおもな活動とする首都につぐ大工業都市となっている。南部のテウワンテペック地峡は,太平洋・大西洋にはさまれたメキシコで一番狭い地帯で,南北わずか200km程度である。この地峡は,通例,地理上の北米と中米の境界と考えられている。最南の州チアパスには,中米の山系に接続するチアパス高地が発達している。角の先の部分に当たるユカタン半島は,隆起サンゴ礁からなる平坦な土地である。

【先スペイン期の土着文明の発展】メキシコをはじめアメリカ大陸の各地に最初に出現した人類は,今日インディオとかインディアンと呼ばれる人々の祖先であり,今から8万年から1万5,000年前にかけて,氷河期に海水面が低下したため,陸橋状に露出したベーリング海峡を伝って,アジア大陸から徒歩でアメリカ大陸に渡ってきた。彼らがアジアからもち込んだ文化は,一種の旧石器・骨角器文化で,約1万年前までに南米大陸南端までひろがり,マンモス・オオナマケモノ・ウマなどの大型獣を絶滅させた。この結果,小型獣の狩猟が重要になり,人口圧もあって,彼らは植物採取から農耕への道をたどった。メキシコ中央高原に人類の痕跡がみられるのは,約2万1,000年前であった。前5,000年ごろ,トウモロコシ・豆・カボチャ・トウガラシなど今日のメキシコ人の食事に欠くことのできない作物の初期的な栽培が始まった。しだいに食料のなかで農作物の比重が高まり,定住農耕生活に必要なメターテという穀物をすりつぶす石板などの道具,かごや網,ついで土器をつくる技術が生まれた。前1,200年ごろからメキシコ湾岸の熱帯湿原地帯にラ=ベンタなどの祭祀センターに少数の政治・宗教指導者と彼らに奉仕する人々が住み,オルメカ文化を発達させた。大地と水の神,または創造神であるジャガーの信仰がひろまったが,類似の信仰はアンデスの高文化の母胎となるチャビン文化にもみられ,両者間の伝播を主張する説もある。オルメカ文化は,メキシコを含むメソ=アメリカ一帯のすべての文化に影響を与え,中央のメキシコ盆地テオティワカン・マヤと総称される諸文化,南部オアハカ盆地のサポテカなどのさまざまな古典期の地方文化の繁栄を可能にした。これらのなかでは,テオティワカンが最高の活力をもち,ほかの地方文化に支配的な影響力をもつにいたった。紀元前後から4世紀までにそこには面積20平方km,人口5万人以上の整然とした街路計画と“太陽のピラミッド”などの宗教的建造物群をもつ大都市が発展した。その軍事的・商業的・宗教的な影響は,メソ=アメリカ全域に及んだ。この都市は,最終的に20万の人口を擁するにいたったが,おそらく宗教的内紛と侵略によって7世紀末ごろ崩壊した。その後メキシコ盆地に数多くのトルテカ系の小王国が分立し,そのなかから,アステカの名で知られるメシカ族が急速に興隆し,周辺に支配をひろげた。メシカ族は,1325年ごろにメキシコ盆地のほぼ中央にあるテスココ湖西岸よりの小島に住みつき,チナンパといういかだの上に耕地や宅地をつくり,しだいに島の周辺や湖岸の干拓をすすめて,人口増加に対処した。メシカ族の拠点メシコ=テノチティトランは,ほかの集落に比べ,食料生産者の比率がきわめて低く,戦士・祭司・職人・商人などが重要な役割を演じる本格的な都市国家に発展した。その市域面積は14平方kmで,人口は20万程度,湖岸の直接隷属する農民などを含めて50万程度であったと考えられている。皇帝の本領は,戦士・政治支配者であったが,同時に最高の司祭を兼ねていた。メシカ族の社会は,貴族・平民・商人・職人・奴隷からなっていたが,まだ個人の能力や責任を重視する傾向も強く,完全に世襲制の閉鎖的な身分制にはなりきってはいなかった。これは,支配圏や交易圏が急速に拡大しつづけ,チャンスが豊富だったことと関連があろう。メシカ族は,人身供御により太陽神・軍神ウィツィロポチトリの毎朝の再生を支援しつづけなければ,世界が闇に閉ざされるとか,一定周期で神々が世界を滅ぼすなどという宿命論的宇宙観をもっていた。そのため,犠牲にする捕虜を捕えることを主目的とする“花々の戦争”を行うこともあった。4世紀ごろにグアテマラに生まれたマヤ文明は,メキシコ盆地からの文化的影響のもとに,7世紀から9世紀にかけて熱帯雨林のなかに農業に支えられた神政都市国家群を発達させ,洗練された建築と彫刻,ゼロの概念を含む数学・天文学・暦法などを生み出した。10世紀になると,マヤ文明の中心はユカタン半島に移動し,都市間に激しい戦争が行われるようになり,その高度な文明は自壊していった。

【植民地時代】1492年のコロンブスのアメリカ発見後,スペイン人は今日のドミニカ共和国の首都にあたるサント=ドミンゴを根拠地としてカリブ海のおもな島々を占拠し,インディオを働かせて,砂金採取や農牧業を行った。1518年から,スペイン人はメキシコ湾岸の探検を行っていたが,1519年にキューバ島を出発したエルナン=コルテスがベラ=クルスに上陸し,アステカ国と接触,1521年に苦闘の末テノチティトランを占領し,同国を征服した。1524年からテノチティトランの廃墟の上に,中央広場と規則的な直交街路を備えたスペイン都市の建設がインディオの労働力を使って始められ,メキシコ市と名づけられた。今日のメキシコにあたる新植民地は,新しいスペインという意味でヌエバ=エスパーニャと呼ばれ,メキシコ市が副王の所在地として行政中心地となった。16世紀中葉までにおもな地方の征服が完了し,スペイン王室は緻密な植民地統治機構を整えた。原住民人口の多い地域の中心集落は市とされ,自治機関として,市参事会カビルドがつくられ,都市内の宅地と農村部の土地を得た上に,エンコミエンダ制度によってインディオの労働力を自分のために用いることを認められた征服者とその子孫など(のちには富裕な商人も)の有力市民がその運営権を得た。北部の漂泊狩猟採取民の生活圏では,中央部の高文化地帯と異なり,スペイン人にとって経済的誘因が少なく,インディオの散発的な襲撃の危険もあって,入植は遅々としてすすまなかった。このため,イエズス会やフランシスコ会などがインディオを人為的に集落に定着させ,農耕などの技芸を教えながら,キリスト教への改宗をはかった。今日のアメリカ合衆国南西部・極西部(カリフォルニア)などもこのようなメキシコから来た修道士たちのつくった教化部落ミシオンや要塞プレシディオのネットワークによって開発された地域である。ヌエバ=エスパーニャ植民地の経済は,征服後,新たな農牧業と鉱業を軸として,中央部の膨大な定着農耕民社会が供給できる勤勉な労働力に支えられて,急速に拡大した。在来の作物に加えて,小麦・米・サトウキビのような商品作物とか牛・馬・豚・羊・山羊のような家畜が導入され,大農場・大牧場・インディオの農民などで生産された。サカテカス銀山(1546)・グアナフアト銀山(1558)が発見され,1557年に導入された水銀アマルガム法によって,鉱石からの銀抽出度量が高まり,メキシコは,ポトシ銀山をもつペルー副王領とともに,スペインの歳入の大部分,世界の銀生産の大半を占めた。銀の生産は,17世紀に低下したが,18世紀には回復した。多数のインディオの生命を犠牲にしながら,鉱山都市ベラクルスのような港市,とりわけ全植民地の中心地メキシコ市が繁栄した。しかし,これらの少数の植民地都市はスペインに富を送るために機能する家産都市としてつくられたのである。征服後,スペイン人の導入した単一の貨幣・拡大した交通網と馬・牛・ラバ・車のような新しい輸送手段のために,商業が飛躍的に発展した。しだいに都市の商業機能が重要になり,商人は,エンコミエンダの保有者エンコメンデロ階級を上回る政治力と社会的地位を手に入れはじめた。しかし,植民地はスペイン本国とのみ交易をすることを許され,交易路・港・貿易船隊の編成も厳しく規制された。ただし,スペインの重商主義的統制にも不徹底なところがあり,重量比価格の低い繊維・金属製品などは,植民地内でオブラッヘと呼ばれる工房で生産された。征服直後には,征服者であるスペイン人と被征服者であるインディオからなる二元的社会が成立していた。その後,しだいに都市を中心として混血人メスティソが増え,少数ではあるが黒人奴隷も導入され,しだいに黒人と白人の混血人ムラート,黒人とインディオの混血人サンボも出現した。こうして,当初の二元性が徐々にあいまいになったが,人種と階層の対応した身分秩序は存続し,今日までその影響を残すことになった。植民地時代末期の18世紀には,スペインの重商主義の合理化追求のための政策に対する反発もあって,植民地生まれの白人クリオーリョが,本国人ペニンスラールに対する敵意を強め,自らをアメリカ人と呼びはじめた。中間層のかなりの部分を占めるメスティソと中および上流のクリオーリョを社会基盤に,今日のラテン=アメリカ文化の母胎である植民地クリオーリョ文化がしだいに形成され,独立の前提条件となる文化ナショナリズムの根拠となった。公的な文化に影響の大きかった教育制度は教会,とりわけイエズス会に独占されていたが,1767年同会はスペイン帝国から追放され,18世紀の啓蒙主義思想の波及もあり,教育内容の世俗化の傾向が強まった。

【独立後の1世紀】スペインのほかのアメリカ植民地(キューバとプエルト=リコを除く)と同様,また,ヌエバ=エスパーニャもヨーロッパの動乱の余波の結果,独立を達成した。1808年ナポレオン軍がスペインを占領したため,植民地のクリオーリョが政治権力を獲得する機会が生まれた。1820年スペインで自由主義者の革命がおきると,メキシコのクリオーリョは反発して独立に踏みきり,1821年少数の残存独立派と協定を結び,最後の副王オドノフに独立を承認させた。1824年憲法が公布され,メキシコは19の州と五つの準州をもつ連邦共和国になった。アメリカ合衆国とイギリスも独立を承認した。政治の舞台では,1830年代以後保守派と自由派の対立が中心的な問題となった。1834〜54年は,軍人独裁者サンタ=アナと実際の政策づくりを担当するアラマンのコンビが保守派を代表して,政権を握った。このあいだにテハス(今日の米国テキサス州)が分離独立し,米国に合併しただけでなく,米国との戦争(1846〜48)にメキシコは敗れ,今日の米国南西部にあたる地方,すなわち国土の約半分を失った。1855年はじめて自由派内閣が成立し,“フアレス法”によって,軍と教会から一般犯罪に関する裁判権を奪った。翌年“レルド法”によって,教会とインディオ共同体の土地保有が禁止された。1857年憲法が公布され,サンタ=アナ独裁の教訓をくみ,州権を強化した。1858年から1861年まで“レフォルマ戦争”が保守派と自由派のあいだに闘われた。劣勢になった保守派は,フランスのナポレオン3世に介入を要請し,1861年12月からフランス・スペイン・イギリスの3カ国連合軍は,フアレス大統領の対外債務の元利支払停止宣言を口実として,ベラクルスを占領した。ほかの2国が撤兵したのちも,フランスは内陸へ進撃をつづけ,オーストリアのハプスブルク家(16〜17世紀のスペイン王室の血縁)のマクシミリアン大公をメキシコ皇帝とした。しかし,プロシアとの戦争に備え,フランス軍が撤兵し,南北戦争を終えた米国が北部に逃げたフアレスらの軍に援助を提供しはじめると,マクシミリアンは,1867年ケレタロで敗れ,7月銃殺された。侵略者と同盟した保守派の信望は地に落ち,自由派の勝利が確定した。進歩への期待がみなぎったが,現実には復員軍人の社会復帰や戦時に指導者となった青年政治家と老人指導者の抗争や経済復興などの問題が山積みされていた。1876年自由派の軍人で対マクシミリアン戦の英雄ディアスが反乱をおこし,大統領に就任した。彼は,結局1911年まで35年間メキシコを独裁者として支配し,輸出経済による発展と繁栄を実現した。首都から外港ベラクルス・北部の鉱山・米国の鉄道網とのあいだに鉄道が開設され,鉱農産品の輸出拡大を可能にしたほか,国内市場の統一を助けた。経済発展により増加した中間層は,連邦政府に雇用されたが,ディアスと個人的関係で結ばれた人物が各レベルの公職を独占しつづけたため,若い有能な人物を反対派にする傾向があった。1906年の北部カナネア鉱山のストと虐殺,1907年のベラクルス州のリオブランコの繊維工場のストと虐殺以来,ディアス体制の不安定化が始まり,1910年北部の理想主義的な農園主マデロの蜂起の呼びかけをきっかけに反乱が始まり,1911年ディアスが亡命し,マデロが大統領に就任した。

メキシコ革命】マデロは,1913年旧ディアス派の野心的な将軍ウエルタ(Victoriano Huerta)によって暗殺され,メキシコは,再び激しい内戦にのみこまれた。そのなかから北部の農園主カランサが最強の勢力として出現し,1917年憲法を公布し,内戦を終息させた。この憲法は,1857年憲法を母体に,大統領の権限強化と再選禁止,労働法規・農地改革・資源の国家所有などを規定した当時の世界としては,先進的なものであった。カランサは,1920年同盟者オブレゴンのクーデタによって失脚し,暗殺された。南部の農民指導者サパタは1919年に,北部の大衆的な英雄パンチョ=ビリャは1923年に,それぞれオブレゴンの意志で暗殺された。オブレゴンは,おもだった革命家で協調できる人物を州知事や管区司令官に任命したほか,1921年から農地改革を行い,農民と労働者を政府の手で上から組織した。1924年オブレゴンのあとを継いで大統領になったカイェスは,オブレゴンのつくった政治機構を継承し,経済面でも制度の整備やインフラストラクチャーの整備・生産増強などの実績を上げた。1928年にオブレゴンは,再選禁止の規定にもかかわらず大統領に就任する直前に政府に迫害されていた教会に近い狂信者に暗殺された。カイェスは,全国革命党(PRN)を創設,この政党が政府党として,政権を独占する体制を発足させた。大統領の任期は,4年から6年に延長された。1934年政界の実力者カイェスの指名を受けたカルデナスが大統領に就任し,予想に反してカイェスと対立しはじめた。大統領は教会と和解し,全国農民総同盟(CNC)とメキシコ労働者総同盟(CTM)をつくり,PRN に編入し,政府党を強化した。これらの勢力を背景にカルデナスカイェスを米国に追放した。1938年 PNR は,メキシコ革命党(PRM)と改称され,軍人・労働者・農民・一般の4部会から構成されることになった。カルデナスは,農地改革を積極的に行い,1938年米・英両国系の石油会社を国有化した。第二次世界大戦に際しては,メキシコは日米開戦とともに枢軸諸国と断交し,ついで1942年5月宣戦布告した。参戦によって,当時の大統領アビラ=カマチョには強い権限が与えられたが,彼は穏健路線をとり野党を認め,国内の和解を優先した。1946年 PRM は,現行の制度的革命党(PRI)と改称した。同年アレマンが大統領に就任し,彼は内外の投資を奨励して,工業化を推進した。次の大統領ルイス=コルティネス以後の歴代大統領は,ほぼ全員工業化を中心に経済開発を重視した。この結果,メキシコの経済成長率は1940〜60年6.1%,1960〜70年に6.8%を記録し,ほかのラテン=アメリカ諸国の実績を上回った。1958年に就任したロペス=マテオス大統領のもとで,メキシコは米国の圧力に抵抗して,革命後のキューバと国交を維持しつづけた。しかし,ミサイル危機に際しては米国を支持した。1968年メキシコ-オリンピックの直前ディアス=オルダス政権下でトラテロルコの学生虐殺事件がおき,内外に衝撃を与えた。1970年に就任したエチエベリア大統領は,積極的な第三世界外交を展開したが,財界から猛反発を受けた。1976年発足したロペス=ポルティーヨ政権下で,メキシコは石油輸出国となったが,原油価格が下落すると,900億ドルの対外債務に直面した。

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