●明六社 めいろくしゃ
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明治初期啓蒙家・新知識人による最初の近代的学会(ソサエティー)。1873年(明治6)7月アメリカから帰国した森有礼は,西洋文明国流の学会・啓蒙活動の団体を設立することを発起し,自ら社長となり,西村茂樹・津田真道・西周・中村正直(敬宇)・加藤弘之・箕作秋坪・福沢諭吉・杉亨二・箕作麟祥を創立社員として設立・発会した。社名は設立年に由来している。【19条からなる明六社制規】1874年2月に定められた明六社制規によると,その設立主旨は〈我国ノ教育ヲ進メンカ為ニ有志ノ徒会同シテ其手段ヲ商議スルニ在リ,又同志集会シテ異見ヲ交換シ知ヲ広メ識ヲ明ニスルニ在リ〉(第1条)とある。社員はつねに会同して会議に加わる「定員」のほか,遠隔地にあって教育に心を用いる人を社員3分の2の賛成(投票)で選ぶ「通信員」,社員全員の賛成(投票の満票)で選ばれる名誉員,東京に一時滞在中入社の資格を得た「格外員」の4種があり(第3〜7条),社員数は約30名であった。社員の会費は月額の定めがなく〈費用高ニ随ヒ毎月一日各員之ヲ出シ合スベシ〉(第9条)とあり,集会日は毎月1日・16日に社の総員が会同することとし(第10条),社長の任期は1年で毎年2月1日の会で選挙によって選出する(第12条)ことになっていた。
【機関誌明六社雑誌】通例「明六雑誌」といわれる。第1号は1874年2月に発刊され,1875年11月第43号で廃刊した。創刊の当初は毎月およそ2号が発刊された。発行部数は創刊第1年の毎号平均は3,205冊である。雑誌への寄稿者はいうまでもなく明六社の社員であるが,掲載の論篇の頻度をみると,津田真道が最も多く24篇,阪谷素16篇,西周13篇,西村茂樹11篇,杉亨二10篇,神田孝平9篇,森有礼7篇,加藤弘之6篇,中村正直5篇,福沢諭吉・箕作麟祥各3篇,清水卯三郎・柏原孝章各2篇,箕作秋坪・津田仙・柴田昌吉各1篇である。取り上げている論題は当然のことであるが,文明開化論のほか,民撰議院論・国学国語問題・学者職分論・経済論・宗教論・行刑論・外交論・廃娼論・夫婦同権論など当時まさに当面していた各分野の問題とそれへの見解・意見が述べられている。論題の性格上,当然時事的な問題にわたっているが,直接に維新政府の政策を誹議することはなされていない。第30号(1875年2月刊行)に掲載された森有礼の「明六社第一年回役員改選ニ付演説」にも〈時ノ政事ニ係ハリテ論スルカ如キハ本来吾社開会ノ主意ニ非ス(中略)之ニ由テ或ハ不要ノ難事ヲ社ニ来タスモ計ル可ラス,故ニ今聊将来ノ社益ヲ慮テ此ニ予報ス,願クハ諸君之ヲ諒セヨ〉と述べている。当時最も政府を刺激した民撰議院論に関する神田・阪谷・西・森・加藤の意見にしても,尚早漸進論であり,宗教政策・宗教論における津田・西・森の意見も政教分離,信教の自由を認める立場をとりながら,たとえば森は〈若シ之ニ由テ外顕他人ノ妨害トナル者ハ政府宜シク法ヲ設ケテ之ヲ制スヘシ〉(第6号「宗教」)と述べて国の現実にすすめる宗教政策に抵触しないことを条件として呈示している。
【雑誌の廃刊と終焉】1875年6月の讒謗律と新聞紙条例の改正によって,言論に対する取り締まりが強化され,同年9月1日休会明けの明六社の会合で,ときの社長箕作秋坪の発意で福沢諭吉が雑誌の廃刊を提議〈明六雑誌ノ出版ヲ止ルノ議案〉,森は続刊説を唱えたが,討論の末,廃刊となった。雑誌廃刊後の明六社は同人が毎月1回神田橋外にあった三河屋,あるいは上野の精養軒などで会合を開き,学術上の談話をなすことがつづけられたが,だんだんにさびれて1910年ごろに消滅した。