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●名誉革命 めいよかくめい

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1688年イギリスでおこった政治革命のこと。流血がなかったのでこの名がある。

【背景と原因】1685年チャールズ2世の死後彼の弟ヨーク公がジェームズ2世(1633〜1701)として王位を継いだが、彼も前王の晩年と同じくフランスのルイ14世からの財政援助をうけて親仏政策をとろうとした。彼の即位直後おこったチャールズ1世の庶子モンマス公(1649〜1685)の反乱を機に、国王の法律適用免除権などを行使し、審査律(Test Act, 1673年制定)を無視して、多くのカトリック教徒を軍・官の要職につけていった。そのなかにはアランデル卿(1606ごろ〜1694)の枢密院議員登用その他が含まれている。大学もカトリックの神学校にかえられたといわれたし、また1686年教会委員会を設け、さらに2回にわたって信仰自由宣言(1687、88)を発してカトリック教徒の擁護をはかった。権力の中枢にカトリック教徒を据え、フランスに依存しながら自らの支配を維持しようとするジェームズのこのような政策に対し、議会で多数をしめるトーリーは国0の死と彼の長女メアリとその夫オランダ総督オレンジ公ウィリアム(1650〜1702)の王位継承を辛抱強く待とうと考えていた。しかし1688年6月ジェームズに男子が誕生し、この王子がカトリック教徒として育てられることが明らかになるとその態度を変えた。

【展開】トーリーは直ちにウィッグとともに、〈新教およびわが国の法律と自由〉を破壊から守るために、しかも民衆の蜂起を防ぎながら、革命の主導権をウィリアムが握らねばならぬと考え、彼に正式の招請状を送った。すでに下相談をもちかけられ自らも応諾の意を固めていたウィリアムは直ちに準備にとりかかり、11月兵を率いてイングランド南西部トーベー湾に上陸した。ジェームズはこれを迎え撃つために軍を進めたが、離反にあってロンドンにひき返さざるをえなかった。そして、自らの地位を守るために諸手段を講じたが時はすでに遅く、12月彼はフランスに亡命した。

 ウィリアムはロンドンに入り、彼の名において仮議会を召集、それは翌年1月開会した。仮議会はジェームズが統治を放棄し王位は空位となったとし、ウィリアムとメアリを共同君主と決めるとともに、「権利宣言」を行った。これらのことを認めることによってウィリアム3世とメアリ2世の統治は実現した。またこのときから仮議会は正規の議会となった。

【新しい体制】議会は新しい体制の基礎を固めるために軍罰法(Mutiny Act, 3月)・寛容法(Toleration Act, 5月)・権利章典(Bill of Rights、12月)などの法律をあいついで制定していった。軍罰法は議会による軍隊の支配を定め、寛容法はプロテスタント非国教徒の信仰に対する寛容を定めたものである。また権利章典権利宣言を法律化したものであり、国王が議会の承認なしに法律の廃止・課税・常備軍の維持を行いえないことなどはもちろんのこと、王位継承の問題をも含めての議会主権の拡大を規定したものである。しかしこうして樹立された立憲王政を社会的基盤の点からみれば、それは地主階級と上層ブルジョアジーによって担われたものであった。

 なおウィリアムとメアリの即位によってイギリスはフランス=ルイ14世の覇権主義に対抗するアウグスブルク同盟に加わりフランスと戦争を行うことになった(ファルツ継承戦争、1689〜97。アメリカでの戦争はウィリアム王の戦争と呼ばれる)。この戦争の終結であるライスワイク条約においてフランスはウィリアムとメアリをイギリス王として承認するとともにジェームズ派(ジャコバイト)を援助しないことを約した。〔参考文献〕浜林正夫『イギリス名誉革命史』上・下、1981〜83、未来社

トレヴェリアン、松村赳訳『イングランド革命』1978、みすず書房


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