●明治美術会 めいじびじゅつかい
AD
イタリアから画家アントニオ=フォンタネージ(1818〜1882)らを招いて1876年(明治9)開校した工部美術学校の出発は、日本の西洋画を飛躍的に進展させるものであったが、明治10年代に始まる岡倉天心・アーネスト=フェノロサらの日本の伝統美術の護持を訴える国粋主義的潮流は西洋画排斥の激しい潮流となって、1881年の第1回絵画共進会への洋風画出品が拒絶されるまでになった。この事態に対して、1884年、浅井忠・柳源吉・本多錦吉郎らの十一会は洋画排斥反対の運動をおこし、1887年の東京府工芸品共進会に初めて油絵の出品が認められた。1887年、ドイツから帰った原田直次郎、フランスから山本芳翠、1888年にイタリアに学んだ松岡寿らが帰朝したが、天心・フェノロサの指導する東京美術学校の設立に対抗して、1889年、新帰朝の洋画家たちと浅井忠・川村清雄・五姓田義松らが明治美術会を結成した。同会は、1896年の黒田清輝の白馬会の設立以後、黒田らが外光派・新派と呼ばれたのに対して脂派・旧派と呼ばれ、内部的にも新旧派の分裂を招いて、1901年に解散したが、1902年、吉田博・中川八郎・石川寅治・満谷国四郎・丸山晩霞・石井柏亭などの浅井忠・小山正太郎門下を中心とする太平洋画会が創立された。