●明治天皇 めいじてんのう
アジア 日本 AD1852 江戸時代
1852〜1912(嘉永5〜明治45)第122代に数えられる天皇。名は睦仁(むつひと)。孝明天皇第2皇子。幼名は祐宮(さちのみや)。母は中山忠能の娘で,典侍中山慶子(よしこ)。のちに中山一位局という。1860年立太子。孝明天皇の急死により1867年(慶応3)1月践祚。関白二条斉敬が摂政となった。同年討幕の密勅が出され,将軍慶喜は朝廷に大政奉還を申し出た。ここにおいて約265年間の江戸幕府が滅亡し,同年12月王政復古が宣言されて,天皇を頂点とする明治新政府が成立した。1868年9月明治と改元して一世一元の制を定め,12月には一条忠香の女美子(はるこ,昭憲皇太后)を皇后に立てた。1867年から1868年にかけては政治的大転換期であったが,天皇がまだ若年であったことにより,薩長の倒幕派が勢力を伸ばし,天皇中心の中央集権体制の確立に努力した。幕末,欧米列強の力をみせつけられていた革新的な下級武士たちは,富国強兵こそ政治の根本であると自覚し,そのために旧幕府の処分を急がねばならぬと思っていた。版籍奉還から廃藩置県への移行は,まさにその第1歩であり,これによって新政府の基礎を固めることができた。また旧幕府の勢力が存在している関東・東北を鎮めるために首都を江戸に移し,東京と改めた。1868年の大久保利通の遷都建白書には次のように書かれている。〈是迄之通,主上と申し奉るものは,玉簾(ぎょくれん)の内に在し,人間に替らせ玉ふ様に纔(わずか)に限りたる公卿方の外,拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては,民の父母たる天賦の御職掌には乖戻(かいれい)したる訳なれば〉との考えに立って,岩倉具視・三条実美・木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通らが天皇の“君徳培養”に心血を注いだ。また,侍講となった元田永孚・福羽美静・副島種臣・伊地知正治,それに侍補となった吉井友実・佐々木高行・杉孫七郎・徳大寺実則らも,天皇に大きな影響を与えた。だから天皇の政治的意見が政治に反映するようになったのは,岩倉・西郷・木戸・大久保らが死んでからである。天皇即位後,天皇の神格化を進めるとともに,1881年陸海軍人に対し,大元帥として勅諭を発し,ついで1889年大日本帝国憲法の発布・皇室典範の制定などによって,国家統治の大権・陸海軍の統帥権が明確にされ,天皇制絶対主義が確立した。また精神面では1890年の教育勅語で,忠君愛国を国民道徳の中心として教えるなどして,国神格化を完璧なものにしていった。在位期間中,強大な政治権限を付与され,その上,空前絶後といわれるぐらいの膨大な皇室財産を与えられ,日清・日露の両戦争で勝利し,国力を伸長させたので,ロシアのピョートル大帝・プロシアのフリードリヒなどと比較されて,「大帝」と呼びならわされている。確かに統一国家の成立・発展期にもあたり,なおかつ,日本資本主義の上昇期に面して,国際的地位も高めたので,“英王”として評価されたのである。また明治天皇は歌人として多くの業績を残している。幼時より父孝明天皇により作歌の指導を受け,のちに典侍広橋静子・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)・高崎正風(まさかぜ)らに教えを受けた。とくに,高崎正風は,桂園派の巨匠八田知紀(とものり)に学び,1876年御歌掛,1886年,三条西季知(すえとも)のあとを継いで御歌掛長,1888年には初代御歌所所長となって,明治天皇・昭憲皇太后に奉仕したので,天皇自身その影響を受けている。『明治天皇御製全集』162冊(宮内庁侍従職所管)に,その全部が収められているが,政務・軍務の忙しさのなかで,9万3,032首の詠作を残したのである。1916年(大正5)御製集編さんが始まり1919年に終わる。1922年12月文部省より『明治天皇御集』として発刊。1,687首が収載されている。1960年(昭和35),明治神宮が御製集改編を企画し,1964年に完了。『新輯明治天皇御集』上・下2巻を刊行した。8,936首が収載されている。桂園調でおおらかな,それでいて帝王調の風格のある歌風を樹立したといわれる。陵墓は京都の伏見桃山陵。
![]()