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●明治時代 めいじじだい

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 1868〜1912年(明治1〜45)江戸幕藩封建支配が終わり,大正・昭和時代へつづく近代的統一国家の形成・確立期。王政復古によって天皇親政を標榜する新政府が成立すると,1868年9月8日に明治と改元,一世一元としたので以降天皇睦仁(明治天皇)が死亡する,1912年7月30日までの45年間を称する。全般的にいえば明治時代は,19世紀中葉から20世紀初頭の時代であり,世界史的には列強が民族国家として独立し,帝国主義の段階に入った大きな転換期であり,また国内的には資本主義が成立し,立憲政治が開始され,列強に対しては条約改正によって国際的平等を勝ち得,諸同盟によって国際的連繋を結び,世界列強と比肩するまでに発展した時代であり,時期区分は大概的に以下3期に分けられる。

【第1期】幕末期を受けた明治維新期に属し,1877年(明治10)の西南戦争終了までとする。1867年(慶応3年)の大政奉還から1868年(明治1)の王政復古により,明治政府は,天皇を中核とする,薩摩・長州・土佐・肥前が中心となった諸藩連合政権の形態をとり,公議政体思想を表明した,五箇条の御誓文・政体書を公布,そして1869年(明治2)の版籍奉還をへて,1871年(明治4)の廃藩置県にいたって,全国統一権力を確立した。こののちは,欧米文化の積極的移入に取り組み,“文明開化”と称される,開明的色彩を色濃く政治に反映させる。まず,1872年(明治5)に学制頒布を行うが,これは,欧米の教育思想をすみやかに摂取することにより近代教育の制度と思想を確立するためであって,近代学校制度の創始第1歩である。つづいて,1873年(明治6)1月徴兵令を公布した。服役3年の常備軍を根幹とし,別に後備軍・国民軍を編成,従来の士族の常職を解き,明治政府の支柱としての強力な軍隊を組織しようとするものであったが,一般庶民にとり家庭の重要な労働力を奪われることになり,反対は農民一揆となって表出した。次に同年6月地租改正を断行した。これは資本主義生産の発展を促すため,生産の発展を阻害する封建的諸制度の改廃の一つである。旧来の物納年貢を金納にし,全国的な統一をはかったものであったが,農民の負担はほとんど軽減されず,1883〜84年(明治16〜17)の不況にあっては,土地を手離す者が続出した。さらに1876年(明治9)秩禄処分を行い,旧封建的特権を公債に代えることによって旧家臣団を最終的に解消させようとしたものであったが,士族は廃刀令につづくこの政策により,いわゆる“士族の商法”に手を染めて,窮乏者が相次いだ。以上のような政策は,欧米列強に対抗できうる統一国家たらしめようとする民族意識のもとに,天皇の権威をいただく藩閥勢力が欧米文化の急速な移植の権を独占し,近代化遂行の主導権を完全に握ったものといえよう。また,文明開化政策は,富国強兵政策の目的に従属しており,その富国強兵の目的は,対外危機感をもつ国家意識の成長に基礎づけられていた。1873年(明治6)の征韓論の紛糾,1874年(明治7)の征台の役,そして1875年(明治8)の江華島事件といったように,新政府は成立早々,対外進出の政策をとったのであるが,これは対外危機感の高揚が,日本の近代化の推進上不可欠であったことを示している。さてこうした数々の政策が展開されていくなか,改革に伴う不満が続出し,佐賀の乱萩の乱秋月の乱などにつづく西南戦争までの不平士族の反乱や,封建近代化の廃棄・農村自治体の確立などを要求する“世なおし”の農民一揆(1872年まで170件ほどあった)の勃発などが数多くあり,政府政権も動揺した時代であった。

【第2期】これは,1890年(明治23)までである。近代化と国家統一という第1期の政治的課題は,この時期になり,二つをどう統一するか,すなわち民権と国権との関係いかんの問題となり,それは国会開設の是非・時期の論議に集中されてきた。1874年の民撰議院設立の建白に端を発した,初期自由民権運動は,藩閥的利害に関係する反対勢力が指導し,不平士族の反政府運動という性格が強かった。しかし1880年(明治13)ごろになると,豪農・豪商層いわゆる“平民”層を包含し,彼らは,欧米の民主主義思想(中江兆民馬場辰猪・植木枝盛・大井憲太郎ら)の移入を背景とし,民権思想を培い,それを思想的武器として持ち始めた。そして1881年,「明治14年の政変」に際して,政府が立憲制施行の約束をし,国会開設の期日を発表すると,自由民権派は,自由党および立憲改進党といった政党をつくり運動を推進していった。しかしながら,政府が同時に運動勢力弾圧に本腰を入れると,指導者層は脱落した。さらに1882年(明治15)の福島事件から1884年(明治17)の秩父事件にいたる大衆的直接行動,そして高田・加波山事件といったテロ的行動を取りながら,分裂・衰退をたどっていった。また前期にひきつづく朝鮮問題が緊迫,これが自由民権運動に影響を与えた。朝鮮は早くから,資源獲得・国防の前衛基地として着目されていたが,1882年の壬午の変,1884年の甲申の変において,清朝の中国とその背後にあるロシアの圧力を経済的にも軍事的にも受けた。そのことが朝鮮問題に拍車をかけ,軍備拡充の必要を至上課題とする軍国主義的国家主義の主張を伸ばし,自由民権思想の国家主義的側面を強めた。また条約改正も,朝鮮を支配下に置き,アジアでの優位を得て日本の国際的地位向上を欧米列強に承認させようとする動きをみせていった。このような背景をもって,自由民権運動は,民権伸長のための思想的根拠に変化をきたし,国家主義的色彩を強めていったのである。こうしたあいだ政府は,立憲制度の準備を進め,1885年(明治18)内閣制度を確立させ,1889年(明治22)に大日本帝国憲法を発布,1890年(明治23)には第1回帝国議会を開いた。

【第3期】1890年(明治23)以降をいうが,1895年(明治28)を境にさらに二分することもできる。この時期日本は,日清・日露戦争といった2度の対外戦争を経験,これを契機に国内外に大きな変化をみせることになった。1890年の第1回帝国議会開設以来,自由党および立憲改進党は,民力休養・地租軽減をスローガンに政府を攻撃した。しかし両党とも自由民権運動当初とは性格を異にし,帝国主義に対し正面から反対したのではなく,自己の発言権を認めさせるために,政府を攻撃したから,つねに最後には妥協の道を残していた。かくて1893年(明治26)の第4回議会で,国防への急務を説く詔勅が出されるにおよんで,民党側は政府攻撃のほこ先をおさめ,日清戦争を迎える協力体制をつくった。1894年(明治27)から1895年(明治28)の日清戦争は,朝鮮の支配権をめぐり清国と衡突,東学党の乱により清が朝鮮国政府の要請で出兵すると日本も居留民保護の目的で出兵し,朝鮮に内政改革を要求したが拒否された。同時に,日英通商航海条約締結によるイギリスの支持を得たため,清国に宣戦し,開戦となった。黄海海戦に大勝,大連・旅順・威海衛を占領し,1895年下関条約を締結して台湾・遼東半島および2億両の賠償金を得た。この勝利は,軍備拡充に伴う軍事工業の発展と,朝鮮・満州市場への紡績工業の伸展というように日本資本主義を飛躍的に発展させた。また軍事力も国際的に評価が向上,1900年(光緒26・明治33)北清事変では列強の仲間入りをした。つづいて,大陸進出の機会をうかがっていた日本は,ロシアと真向から対立。1902年(明治35)の日英同盟の締結や領土保全・門戸開放をとなえていたアメリカの外交的・経済的援助を得たことで,1904年(明治37)2月,日本軍は旅順攻撃を開始。満州を主戦場として,日露戦争を勃発させた。日本側の勝利に終わり,1905年(明治38)9月ポーツマス講和条約を締結,韓国保護国化・遼東半島租借・南満州鉄道割譲・樺太南部領有を得た。さらに1910年(明治43)の韓国併合により,日本は植民地を有する帝国主義国となったが,国内では,日清戦争当時と異なり,非戦論反戦論が内村鑑三や幸徳秋水らによって主張された。そして戦後は,恐慌と労働運動が高揚し,政府は,財政整理と労働運動・社会主義運動への弾圧を強化し,1910年には大逆事件もおこった。以上のような経過をたどり,旧来の藩閥・官僚体制は弱化し,支配体制内部での勢力分野の再編成が要請されつつ次代を迎えるのである。こうした明治時代は,列強の圧迫と対決しつつおのずから国家統一を成し遂げた日本史上画期的な時代であり,文化的にも新旧の調和した独特な色調をかもし出した時代である。

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