●明治維新 めいじいしん
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【その意義】明治維新は日本の大きな近代化を画す大変革で,天保末より明治10年代末にいたる,政治的社会的大変革である。人によると宝暦・明和・天明期に維新の原型がつくられたという学説を説く人がいる。しかし,現在では天保改革に起点を求めるものが,一番有力な学説である。明治維新は,西欧型の市民革命,ブルジョワ民主主義革命と類似したものだとするものと,絶対主義成立の端緒をつくったもので,半封建的な変革でしかなかったとの説もある。それとともに東アジアにおける先駆的な変革で,ウェスタン=インパクトに抗して,民族独立と民主主義の確立のために闘った変革だとするものもいる。「維新」とか「一新」の用語は,いずれも藤田東湖が使ったもので,「維新」は1830年(天保1),「一新」は1828年(文政11)ごろが初出である。【維新観】明治維新は,勝海舟のような人からは「維新」といわれ,徹底的な変革を求める人からは,「一新」が求められた。明治維新変革の主体をどこに求めるかによって,その理解が異なる。村落に滞留する半プロ層=日傭日用取層のようなものの広範な存在が,世直しを求める勢力となり,足もとから維新や一新を求めたとするときは,下層民に変革のエネルギーがみとめられる。しかし,それとてもそれを組織し,オルグした志士=下層武士や豪農商の存在をみとめることとなると,その説の有効性に対する疑義が生まれやすい。また維新の変革は,日本における開明的な分子の指導によってなしとげられたとするものがある。福沢諭吉は500〜1,000の蘭学をしるものの力であるとそのことを過大評価し,日本と清・朝鮮と異なることは,そこに求められるという。たしかに視座の転換によって,世界的視図の確立が,維新変革をエリートによって選択されたものと理解される。そうであれば,明治維新前後の広範な大衆運動の存在や高揚をどう評価するのかということとなる。とくに,日・中・鮮の東アジア3国がなぜどこで分岐して,近代化の道を異にしたかは,世界史の上で興味と関心があるできごとである。明治維新の起点を開国に求め,そこに1853年(嘉永6)のペリーの浦賀来航に求めるものも少なくない。処士横議がみとめられ,幕府が大名や陪臣の意見を聴取したのも,このときが初めてである。政治的な書は,嘉永4年以前には出版もみとめられていない。とすれば,開国状況の成立は大きい。とくにアヘン戦争・太平天国・インドのセポイの反乱の情報は大きい。そのように考えると,ヨーロッパ先進資本主義の圧力なしに統一国家構想づくりが行われたかどうかも,疑問である。
【維新の性格】そう考えると,明治維新は先進資本主義列強が帝国主義国家へ移行する直前において,19世紀後半で日本の幕藩体制を崩壊させ統一国家としての明治維新づくりを成功させた。これは英・仏のつなひきによるところが少なくないが,まだ産業資本の開明性・平和性に支えられる面もあった。しかし広義にみると,明治天皇制国家の構築は,1869年(明治2)に始まり,国是大会議などのはしりであるとすれば,明治天皇制国家の形成は,そのころより路線引きが行われたといえよう。その完成は明治憲法体制の成立に求めることができる。とすれば,明治維新は一大政治社会的変革といえよう。まず,幕藩体制の解体・廃藩置県はその意味で一画期である。1877年(明治10)の西南戦争は,維新の終焉とみる人もいる。これは徴兵軍隊の勝利による武士勢力の解体と関連づけてみる考え方である。また,明治維新の過程の画期の把握のしかたについてもいろいろな考え方がある。なかでも地租改正・自由民権の評価をめぐっての論議にきびしい。維新史観も大きく違う。西南戦争を第2の維新とし,第3の維新を求め永遠の維新を求める人々もいて,評価はさまざまだが,維新論は,日本の明治国家理解のしかたをかえさせる力量をもっている。維新史はその意味ですぐれて現代的政治的課題追求とかかわっている。
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