●室町時代 むろまちじだい
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【時代の範囲】室町時代のはじまりは,足利尊氏が建武政府に背いた時点であるが,詳細にみると,尊氏が建武式目を制定した1336年(延元1・建武3)とする説と,1338年(延元3・暦応1)に光厳院から征夷大将軍に任ぜられた年とする説とがある。終期は1573年(天正1),15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された年を室町幕府の滅亡ととらえているので,室町時代は約240年間ととらえるのが通説となっている。もっとも,広い意味の室町時代のうち,前のほう,すなわち,1392年(元中9・明徳3)まではとくに南北朝時代の名で呼び,また,あとのほう,すなわち,応仁の乱以後の時期をとくに戦国時代の名で呼んで区別する場合がある。したがって,広い意味での室町時代には,南北朝時代・室町時代・戦国時代の三つの時代を含んでいたと解釈することができるのである。なお,そのような時代区分とは別に,応仁の乱を境に,それより以前を前期,以後を後期とするとらえ方もあり,文化史的な立場からは,前期のことを北山時代,後期のことを東山時代と呼ぶこともある。いずれにせよ,室町幕府の存続した期間を室町時代と呼び,その期間を通じて,将軍はずっと足利氏が世襲していたため,足利時代の名で呼ばれることもある。【将軍権力の強化】幕府のはじまりとしては,初代尊氏が後醍醐天皇の南朝建設に対抗し,北朝を建て,京都の二条高倉に幕府を開いた時点であるが,初期の段階の室町幕府というのは,足利氏一門および強大な守護たちによる連合政権的色彩が濃く,将軍の統制力はきわめて弱かったのである。そのような状況は2代足利義詮のときも同じであったが,ようやく3代足利義満のときになって大きな変化がみられるようになった。1394年(明徳2),11カ国の守護職を持ち,六分一殿の異名を持った山名氏を滅ぼし,さらに1399年(応永6)に中国・北九州に勢威をはっていた大内氏をも倒し,有力守護大名の抑圧に一応,成功したのである。こうなると,幕府は,それまでの単なる“寄合世帯”的な連合政権ではなくなり,将軍権力が飛躍的に強化されていくことになった。尊氏が幕府を開いた当初,将軍の個人的な分身としての位置づけを与えていた執事が管領と変わっていくが,それは単に名前が変わっただけにとどまらず,幕府の公的な最高機関として成立し,将軍はこれ以後,この管領を通して幕府の政務全般を統轄するようになった。なお,義満は,守護大名に京都居住を命じ,また,守護大名の一族やその他有力な国人領主の一部を近習や奉公衆に任命し,側近に集め,いわゆる親衛隊を編成している。奉公衆は地方に散在する将軍の直轄領である御料所の管理にもあたったため,各地の守護大名を統制することができたのである。義満の時代に将軍の権威が高まった理由のもう一つとして挙げられるのは,義満が公家の権威をもとりいれることに成功した点である。1394年(応永1),太政大臣に任ぜられたのはその象徴的表現であり,太政大臣を辞して出家後は,すべて法皇に準ずる行動をとっていることも特徴的であった。義満はまた,明と正式に貿易を開始しており,この義満の時代が240年の室町時代の中では全盛期となったのである。
【幕府・守護体制の推移】義満死後,しだいに衰えはじめた幕府政治の挽回をはかろうとしたのが6代足利義教で,彼は奉公衆の制をさらに重視して,将軍の独裁権を強化する方向に進んだ。その一つの動きが関東に君臨する鎌倉公方(関東公方)との戦いに勝ったことである。2代義詮の弟足利基氏が鎌倉府の長官に任命され,以来,その子孫が鎌倉公方として関東10カ国(のち12カ国)を支配する態勢ができあがり,鎌倉府はしだいに独立国的な動きをみせはじめていたのである。義教は1438年(永享10)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼし,その勢いで有力守護大名の一人赤松満祐をも滅ぼそうとしたが,かえって1441年(嘉吉1),満祐のために殺されてしまったのである。これを嘉吉の乱というが,将軍が暗殺されるという出来事が示すように,この嘉吉の乱を機会に将軍の権力,ひいては幕府の権威は地に落ちてしまった。嘉吉の乱後,足利義勝,さらに足利義政が将軍となったが,義満・義教ほどの専制支配を行う力はなく,しだいに強大な守護大名に擁立される傀儡(かいらい)にすぎなくなり,山名氏もしだいに勢力を回復し,管領家の一つである細川氏とともに幕政を左右する力となったのである。斯波氏・畠山氏,さらに将軍家自身の家督争いが発端となり,東軍細川勝元・西軍山名宗全を総帥とする応仁の乱が1467年(応仁1)から1477年(文明9)まで,前後11年間にわたって戦われることになった。
【応仁の乱とその後】初めのうち,京都を主戦場としていた戦いは,1473年(文明5),山名宗全・細川勝元がともに没するにおよび,しだいに地方化する様相をみせはじめ,幕府は京都を中心とする一地方勢力に転落してしまったのである。しかも,この応仁の乱は,足軽などの身分の低い武士たちが実際の戦いの場面では主力となり,また,下剋上的な気運が急速に高まっていくことにもなった。幕府の権威回復をはかろうとした9代将軍足利義尚の江州六角氏征伐も不成功に終わり,将軍の権威はまったく地に落ちたのである。また,そのような風潮は,ただ将軍家だけでなく,守護大名家においても同様の現象がみられた。守護大名が家臣である守護代にとってかわられるようになり,また,国人領主たちの連合,すなわち国人一揆によって守護大名が倒されるという事態が生じたのである。こうして,守護代とか国人領主たちの下剋上によって,それまでの守護大名にかわって戦国大名が生まれてきた。もちろん,中には守護大名からそのまま戦国大名化した家もあったが,多くは下剋上によって戦国大名化していったのである。こうして,時代は戦国時代と表現されるような戦いの連続する世の中へと移っていった。
【時代の諸相】以上のような政治および社会の流れをとる室町時代とはどのような時代だったのか。大すじからみると,まず,荘園領主勢力である公家や寺社などの急速な衰退という点があげられる。室町時代を通して,平安時代以来の荘園は存続したが,守護勢力による半済や守護請によって侵略され,ついには戦国の争乱の中で消えていくことになったのである。また,室町時代を通じて商工業の目ざましい発達と,都市の急速な発展が指摘される。かつて権門勢家の保護のもとに結成された座は,それまでの閉鎖的なものではなくなり,楽市楽座などとも相まって急速に商業活動が活発化したのである。とくに,応仁の乱後,京都・奈良を中心に酒屋・土倉などの高利貸業者が生まれ,貨幣経済が時代を動かす一つの力となっていった点を見逃すことはできない。また,室町時代は“一揆の時代”といわれるほど,民衆の力が勃興した時代であった。室町時代の農村の特徴として,特に畿内・近国を中心として惣村が生まれ,惣結合という村人たちの自治組織が農民の生活向上に大きな力を発揮した。その象徴的表現ともいうべきものが土一揆で,正長の土一揆をはじめとする土一揆の勃発が幕府権威を失墜させる一つの原動力となったことはまぎれのない事実である。土一揆のあと,戦国期には浄土真宗(一向宗)の門徒を中心にした一向一揆がおこり,たとえば加賀国のように,守護大名の富樫氏を倒し,“百姓持ちの国”といわれる農民たちの自治共和国ができたのもこの時代である。また,山城国一揆のように,やはり,地侍・農民が国の主人となる共和国が生まれたりしていた。その意味では,室町時代はそれまでの時代にはみることのできなかった“庶民の時代”でもあったということができる。
【室町時代の産業】わが国において,二毛作はすでに平安時代からみられるが,全国的に普及するようになったのは室町時代からである。また,この時代には,地域によっては三毛作もみられた。品種の改良が行われ,“ふしくろの稲”“めくろの稲”などと呼ばれる稲が多収穫種として出現したのである。耐旱・早熟種も多数改良されている。また,肥灰(こえばい),すなわち草木灰(そうもくばい)の利用もみられ,堆肥(たいひ)・刈敷(かりしき)の利用は,当時の農民のあいだにおける山野の共有,つまり,惣有地としての山野の使用として重視された。しかし,この時代,農具類には飛躍的な進歩はみられず,鋤・鍬・犂・鎌などはほとんど前代のままのものを使用するにとどまった。しかし,灌漑施設は急速に進み,水利のあまりよくない地域へ灌漑する手段として水車が用いられ,農業生産をあげるに力があった。鎌倉時代の水田は一般的に谷田(やとだ)と呼ばれる谷々の湧水を用水とした小規模なものであったが,室町時代には,水を制御する工夫がみられ,大中河川の中流および下流に堰(せき)を設けて水を引くことが広く行われるようになり,生産力の飛躍的な上昇をもたらすことになった。なお,この時代,木綿が朝鮮半島をへてわが国にもたらされ,庶民衣料としての木綿栽培が大いに発展した。三河地方・摂津地方などが主要な生産地であったが,まだ全国的に普及するというわけではなく,戦国時代になってようやく栽培地がふえるという状況であった。その他,各地に特産品が生まれ,染料として,藍・茜・紅花などが栽培され,灯油原料として荏胡麻は瀬戸内海地域を中心に栽培されていたのである。手工業関係では,尾張の陶器・美濃の紙・備前の刀・出雲の鍬・河内の鋳物といった各地の特産品が生み出された。戦国期には,各地の戦国大名による金山・銀山の開発などもみられ,とくに,神谷寿禎が中国から1533年(天文2)に灰吹法といわれる精錬法をわが国にもたらしたため,金銀の増産は急上昇をみたのである。
【室町時代の商業】座というのは,同業者たちが集まって相互に協定を結び,過当競争から営業を守っていくために作られた同業者の団体である。すでに12世紀の中ごろからみられるが,一番隆盛をみたのが室町時代であった。大山崎の油座は座の典型として知られているが,この場合は,離宮八幡宮の神人(じにん)を中心として,荏胡麻購入の独占権と油製造販売権を行使していたのである。ところで,室町時代の商業の特徴としては,地方の町が発達していった点を挙げることができる。地方市場ともいうもので,常設の店舗をもたない市日(いちび)だけの市が開かれるものがあった。六斎市はその例で,鎌倉時代には10日に1回開かれた三斎市が,室町時代には5日に1回の六斎市となったのである。なお,戦国期になると,戦国大名と密接な関係をもった御用商人が現れてくる。これは,戦国大名が商人の中の主だった者をとりたて,領国内の商業について統轄させたもので,領内の特産品などもこうした御用商人の統制下に入り,御用商人の利潤追求とともに奨励され,発展していったという側面があった。
【室町時代の交通】商品流通の隆盛にともない,交通も頻繁になり,各地の往還(おうかん,街道)は,かつてないにぎわいをみせた。しかし,室町時代,旅人は自由に交通できたわけではなかったのである。各地には関所が置かれ,交通上のさまたげとなっていた。関所はその地の在地領主や荘園領主などが独自に設置したもので,一つには世情不安に対する自衛策であり,一つには関銭の徴収を目的とするものであった。とくに寺社が荘園領主であった場合,表向きは関銭を取って,それを社寺の建立費にあてるためとしていたが,実質的には,それら荘園領主の財源とされていたのである。諸国から京都に入る七口に関所がおかれ,各地の道路にも至るところに関所がおかれていたのである。そうした状況は戦国期になっても同じで,戦国大名の中には,関銭を軍事費としたり,家臣に知行として給与するようなケースもあった。戦国期以前と以後の決定的なちがいは,戦国以前は各領主や社寺が個々に掌握していた関所が,戦国以後は,領国内すべての関所が戦国大名によって把握されたことである。大名の発した過所(過書)と呼ばれる通行手形をもつ者のみが通行を許されるようになっていった。なお,もう一つ,戦国大名の交通政策として注目されるのが,道路網の整備である。とくに軍隊と軍需品の輸送を行うため,道路や橋の整備が急速にみられ,領国単位という限定があったとはいえ,その後の交通・商業に有利な条件を与えたことはたしかである。海上交通の点でも進歩がみられ,伊勢・大湊(おおみなと)から伊良湖岬を通り,遠江の掛塚,駿河の小川(こがわ)・江尻などを結ぶ航路は畿内近国と東国を結ぶ大動脈となっており,また,琵琶湖舟運も畿内近国と北陸・出羽方面とを結ぶ重要なものであった。大津・坂本の馬借の活躍は,いわばその延長線上にあったのである。
【室町時代の外交】室町時代のはじめは,中国では元の終わりのころにあたっており,天龍寺船と呼ばれる幕府公認の商船が貿易をしたことがあった。しかし,最も盛んになるのは3代将軍義満の時代で,倭寇の禁圧を求める明の皇帝の要求を受け入れ,明と正式貿易を開始してからのことである。日明貿易は朝貢貿易の形をとった。つまり,日本国王の名による,朝貢物を持った遣明船が派遣され,その帰りに中国の物産を持ち帰るという体裁をとったのである。中国の冊封体制に入ることによって貿易ができたわけである。なお,この日明貿易を勘合貿易と呼ぶのは,遣使船が正式のものであることを証明する勘合符を持つ船だけに貿易が許されたからである。こうした交通の体裁に不満を持った4代足利義持のときに一時中断したが,貿易による利潤は幕府財政にとって不可欠のものとなり,その後,復活している。もっとも,中期以降,細川・大内両氏が船の経営にのり出し,のちには大内氏がこれを独占するに至っている。このころの主要輸出品としては,硫黄・刀剣・扇などで,輸入品の主なものは銅銭と生糸であった。とくに銅銭は,わが国で皇朝十二銭以後貨幣鋳造がなされなかったという事情もあり,とくに重視されていたのである。
その他,李氏朝鮮が建立されたあと,朝鮮との間の貿易も盛んとなり,また,仲介貿易としての性格をもつ琉球貿易なども行われていた。いわゆる南蛮貿易と呼ばれる南蛮船による貿易は,1543年(天文12)のポルトガル人による鉄砲伝来と1549年(天文18)のザビエルのキリスト教布教という二つの出来事を契機として始まり,ポルトガル人・イスパニア人・オランダ人・イギリス人の来航へとつながっていったのである。もっとも,主体となったのはポルトガル貿易で,鉄砲・火薬・生糸・皮革・香料などを輸入し,金・銀・銅・硫黄などを輸出していたのである。こうして,戦国期には泉州堺と博多が外国との貿易港として大いに繁栄していった。
【室町時代の宗教】この時代の宗教の特徴は,禅宗が大きな影響力を及ぼしていたことである。曹洞宗が地方武士の間に浸透していったのに対し,臨済宗は政治中枢に深く入りこみ,とりわけ京都五山の禅僧たちが,日明貿易との関係で,外交僧として重要な役割を負わされ,また,詩文の述作に精力を傾け,五山文学の全盛時代を現出したのである。しかも,これら禅宗の影響で,たとえば禅宗様庭園の発達や精進料理の普及など,今日の生活に直結するようなものがみられた点はとくに注目される。なお,支配者階級の宗教ではなく,民衆宗教の面では,浄土真宗(一向宗)の本願寺教団が,蓮如以後,教線を伸ばし,畿内・近国,それに北陸地方の農民たちの間に信者をふやしていったのである。門徒化した人々によって講が結成され,これが一向一揆の基礎組織でもあり原動力ともなった。日蓮宗(法華宗)も民衆的宗教で,京都では法華一揆などをおこしている。なお,民間信仰として,熊野や伊勢の御師たちの活躍による熊野信仰・伊勢信仰の地方的波及もこの時代の特徴で,熊野比丘尼などによる女性の信者獲得は新しい動きとして注目される。