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●村寄合 むらよりあい

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 村民が村落の運営問題を協議するための機関。文献史料に登場するのは,郷村制が成立を始める室町時代以降のことであり,江戸時代をへて近代にいたるまで存続した。

【前近代の村寄合】室町時代から戦国時代にかけ,地侍や百姓のあいだに惣と呼ばれる自治的結合体が形成され,その一環として惣寄合または村寄合が開かれた。村寄合において,共有地・灌漑・祭祀・年貢・村法・制裁などの諸問題が協義・決定されたのである。1448年(文安5)の近江国(現滋賀県)蒲生郡今堀の文書に〈寄合触れ二度に出でざる人は五十文咎為すべき者也〉とあり,欠席者に対する罰則規定が謳われているが,この寄合はおそらく定期のものに違いない。当時の他の文書に〈近日野寄合あるべく候〉とあるのは,明らかに臨時の寄合で,野とは屋外を意味している。一般に村寄合は氏神の社前で開かれ,非常時にはそこで一味同心・一味神水が図られたものと考えられる。議決法としてはすでに多数決制が存在したが,多数決を採用しても,一味同心の精神にもとづき最終的には全会一致の形態とされた。江戸時代には,五人組帳前書の読み聞かせのため全村民が召集されることは公認されていたが,徒党禁止策の一環として自治的な村寄合の開催は領主から忌避される傾向があった。寄合に対する禁止策や許可制をとった藩もあった。しかし,村法その他の地方文書から推すと,時期によって自治的性格をしだいに弱めることはあっても,村寄合そのものはかなり広く行われていたとみられる。なおまた,たとえ村寄合じたいは禁じられても,一般に信仰上の会合は認められていたから,村落の自治的問題が宮座や講・日待などの場で協議された可能性が強い。すなわち祭政一致的な形態の村寄合であり,近世から存在の知られる東北地方の契約講もまた同様に違いない。

【近代の村寄合】呼称は,集会を意味するヨリ・サンケー(参会)・ジュリー(揃い),機能を表すカンジョー(勘定),時期を表す初寄合・正月寄合など多様である。規模はムラ(部落)単位が一般的であるが,通常の寄合は村組単位でのみ行われる例もある。またときにはいくつかのムラの連合寄合もあった。ムラ単位の寄合は,地方行政当局によって行政の末端組織として利用され,明治時代には正式名称として戸主会とか区会と呼ばれることが多かったし,1940年(昭和15)以降は大政翼賛運動のもとで一般にこれが部落会・部落常会として把握された。村寄合の開催は定期と臨時の2種あるが,定期のものとしては正月が最も多く,ついで暮・春季の順となる。場所は村役の家,神社や寺・庵・公会堂・公民館などで,村組単位の形態をとったものは概して輪番で各家々が利用された。沖縄ではもっぱら広場や道路など屋外が寄合の場であったが,西日本では臨時の寄合は屋外で開く例がしばしばみられた。小使いの叫び声やホラ貝,鐘の音などで村民は参集し,欠席者や遅刻者は罰せられるのがふつうであった。出席者は明治・大正時代ごろまでは男子の家長のみというところが多く,女性の参加が認められるようになったのは昭和以降のことである。村寄合が屋内で開かれる場合,座順は厳しく守られていた。おもだった村役を正座に,あとは家柄(家格)順か年齢順であり,同族結合の強い地方では家柄順,講組結合ないし年齢階梯制のみられる地域では年齢順という傾向があった。議事は,ムラの経費の予算と決算報告,村役の選出と交替,村山や道路・磯浜の管理や手入れなどの年間の村仕事の確認・決定,村法の作成・審議や違反者に対する制裁の決定などムラ内のさまざまな問題が取り上げられたが,地方行政による委任事務が大きな比重を占めた時期もあった。出稼ぎの多い地域で,職人の賃金を村寄合で取りきめた例もある。議決法は多数決制も採られたが,普及したのは第二次世界大戦後のことであり,それ以前は全会一致制が尊重された。異議のある者に対しては時間をかけて説得するか,あるいは妥協工作によって全会一致のふんいきをつくり,村人のあいだにしこりを残さぬようにとり図られたのである。なお近代においても,神事や仏事と結びついた祭政一致的な村寄合が少なからずみられたが,そうした村寄合はもとより,民間信仰の要素をもたないものでも,正月の初寄合など定期的な村寄合には協議終了後の酒宴はつきものであった。酒宴による村民の融和が村寄合の一つの機能をなしていたといえる。

〔参考文献〕横井清『中世民衆の生活文化』1975,東京大学出版会

勝俣鎮夫『一揆』1982,岩波書店

和歌森太郎「村の寄合と座順」『和歌森太郎著作集 10』1981,弘文堂

平山和彦「村寄合における議決法」『共同体の比較研究』第5巻,1966