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●紫式部 むらさきしきぶ

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 一条天皇の代(986〜1011)の人。『源氏物語』の作者。生年月日・本名は不詳。これはこのころのこの階層の女性の通例である。父は藤原為時。良門流で歌人として知られ,越後越前に守を勤めた。母は長良の流れをくむ陸介右馬頭などをへた従四位下為信の女。為信の父は権中納言民部卿などにもなった文の人である。父為時は御堂関白藤原道長の愛顧を受け,その関係でか式部は道長邸に奉公したこともあるが,道長女彰子が一条天皇中宮のとき,その宮に仕え御補導役といった形で『白氏文集』を教えたりしている。式部は20歳前後で右衛門佐藤原宣孝の妻となり1女を挙げたが,宣孝が早く死に寂しい寡婦の生活のあいだに『源氏物語』を書き始めていたらしい。父の文人的気風を受け和歌を嗜み,和漢の書を読み宮中奉仕は30歳ごろであったらしいがすでに文名をもっていた。道長は中宮の身辺にそういう才媛を侍らせる考えであったから式部も選ばれたのである。『源氏物語』は日本文学最高の作として早くから海外にも知られた大作だが,式部にはそのほかに日記と多数の和歌が残されている。父は文の人であって家には多くの書物があったし,夫宣孝も書籍を多数残したらしく,式部は史記漢書などの漢籍から仏書にも親しみ仏道に深い理解をもっていた。『源氏物語』はそれをよく表している。当時は藤原道長全盛で道長は自身学問文学に心を注ぎ,当時の華やかな後宮生活は,中宮を中心に多くの優れた女房たちによる女流文学の最盛期で,式部はその中心的存在であった。『源氏物語』は当時の宮廷貴族の優雅艶麗のありさまを描くが,一面のがれ難い人間の運命,はかない人生に触れた何か物悲しい心情が物語中の男女にみえる。これには当時の末法思想の浸透,不安つきぬ生涯への悩みなどのにじみ出たところである。式部は鋭い洞察力をもち,日記をみれば同性の女性への観察はなかなか手きびしく鋭い。式部より一とき遡るが式部と並んで当代女流文学者の双璧といわれる清少納言,歌人のきこえ高き和泉式部などへの批判は筆法鋭く,これは女太弐三位の宮仕のための教訓ともいわれている。大弐三位賢子は大宰大弐高階成章の妻となったが,後一条天皇の乳人となり,同じく歌人の名を残す。後宮女房としての式部は,当時公卿方が中宮への連絡を中宮側近の女房に託すのは通例であったらしいが,ときの右府小野宮実資なども式部を通して中宮に依頼するところもあったようだ。実資は道長のもとにいたが硬骨の重臣で道長も一目おいた人物。式部がこの人物と接触するのは道長の快しとしないところで,式部の宮中奉仕はそのために打ち切られたのではないかとみられている。式部の宮中退出は何年であったかこれも不詳。初めは親しめなかったがのちにはだれよりも親しくなったと中宮がいったと日記にあるが,中宮の信任も得ていた。奉仕中,中宮の父道長が式部の局にしのび込もうとして拒まれたらしいことは日記にみえるが,当時の風習で道長と特別な関係をもったというみかたが有力である。尊卑分脈には式部の項に御堂関白の妾と書き入れてある。『紫式部日記』には早く死んだ姉のいたこと,父の赴任について越前に旅したこと,夫宣孝が今も通う女のあることでその申し出をなかなか受け入れられなかったことなどが書かれている。結婚後は幸福であったが夫には早く死なれた。深い仏教信仰をもっていた式部は仏教原理にまですすむものをもっていたが,出家を志しながら出家したとは思われないのは1女の母としての心情であったか。『源氏物語』のなかでの理想的女性紫の上も,ついには夫光源氏の人間愛にみたされず出家入道をのぞみつつ果たさずして死んだが,式部自身また入道することなくて終わったらしい。しかし後宮退出後の消息は不明なのでこれも推測の域をでない。

〔参考文献〕角田文衛『紫式部の周辺』

山中裕『平安時代女流作家』

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