●村境 むらざかい
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民俗の母体としてのムラは,生産対象としての土地(耕地・山林・原野)と家とを成立要件とした地域社会であり,一定の領域を有している。したがってその領域を区画する境界があって,ふつうはほかの村落と接しており,地籍上の境界がそれに相当する。近世初頭,村切りによって惣村を中核とする支配単位の村を設定し,村人が耕作する一定の田畑をそれに帰属させて検地帳を作成したが,この範域は多く明治の地租改正において引き継がれ,現在の大字の範囲となっている。しかし,村境といった場合,この地籍上の範域を示す境界ばかりでなく,村人が自分たちの住むムラの内と外とを明確に区分する観念が種々の民俗として存在しており,いわば社会的(観念的)村境がこれとは別に存在している。柳田国男は『時代と農政』において〈古い所へ遡りますと,村なるものの意義は今日とは異なって居りまして,単に民居の一集団即ち宅地の有る部分のみを村と称したのであります。村民が耕作する田畠乃至は其利用する山林原野は則ち単に其村に属する土地でありまして,後世村を一つの行政区画とするやうになってから,其田畑山野までを総括して村と称するに至ったのであります〉とすこぶる興味深い見解を表明している。この柳田の見解からムラの空間構成について構成図を描くと次のようになる。(1)民居の一集団=集落=ムラ,(2)耕作する田畑=耕地=ノラ,(3)利用する山林原野=林野=ヤマの各々の領域が,内から外へと広がる3重の同心円として構成しうる。そしてムラとノラを区画する村境が,先に触れた社会的村境であり,元来の村境といえるのである。そして,内と外とを区別する施設なり標識が見られるのもこうした位置にほかならない。近畿地方のムラでしばしばみられるのは勧請縄であり,道路がムラに入る地点の両側に木や竹を立てて張り渡すのである。なかには祈祷の文章を書いた勧請板を中央に吊り下げたものもみられる。関東地方ではこれを辻札とか八丁注連と称しており,全国各地でごく一般的に行われている。またこの注連縄を巨大な蛇型につくってムラの入口の木に掛けておくところ,大きな人形をつくってムラの外へむかってにらみをきかせて立てておくところ,また大きな草腹を木に吊すところなどもある。このようにムラの入口に呪物を設定してムラを守ろうとする行事を道切りという。人間も霊もムラへ入ってくるときは道路を通ってくるのであり,すべてこの位置を通過するといった観念にもとづくものであり,ムラの出入口はムラの内と外との接点に当たるのである。ムラの内と外とを区分するもう一つの標識は道祖神・地蔵であり,前者は東日本に,後者は西日本に広くみかけられる。こうした道切りや道祖神・地蔵によって守られた平和で安全な空間がムラであり,その外側の危険な霊や人間がさまよう世界がすなわち世間でありタビにほかならない。ムラの外側はムラの秩序の及ばない空間である反面,神仏の加護を得られぬ危険な空間であり,ムラの統制に違反したものはムラの外へ居住させられるという形で,最も厳しい制裁を受けることもあった。日本の村落は,欧州や中国のように堀や塀で囲まれた村落は数少ない。大和盆地に顕著に発達した環濠集落が唯一の例外といってよく,こうした物理的施設によって外敵を阻止する方法とは別に,道切りその他によって内外を区別する村境が明らかに存在していたのである。以上述べてきたムラとノラとの境のほか,ノラとヤマの境にも境界が想定されていた。それはノラのはずれの隣村との境,あるいは外へ流れていく川の所であり,松明や藁人形を掲げてノラを駆け回り,害虫を外へと追いやる虫送りという民俗行事に典型的に示されている。さらにヤマの外側に境があって,この場合は地籍境と一致している。この村境は,耕地や領域の拡大に伴って境界争いの絶えない村境であり,定期的にヤマの境界を確認して歩く慣行もみられた。〔参考文献〕原田敏明『宗教と社会』1972,東海大学出版会
福田アジオ『日本村落の民俗的構造』1982,弘文堂