●村方騒動 むらかたそうどう
アジア 日本 AD
村役人層の不正に対する一般村民=小前百姓たちの,村のなかでの追及運動のことで,江戸後期に多くみられる。村方騒動の数は膨大すぎて,数量計算すること自体不可能なほどであるが,そのなかのかなりのものが領主に訴え出るという形で表面化しているのである。領主は多くの場合,その村に近い町村の役人や有力者に調停を命じ,結局は村内で示談によって事態を収拾させるという内済方式をとって解決している。【村方騒動の歴史的位置づけ】村方騒動は百姓一揆と世直し一揆(騒動)のあいだをつなぐ農民闘争であって,村落共同体の変質によって発生したものということができる。百姓一揆の本質は,全藩惣百姓一揆の場合に典型的に示されるように,村落共同体の固いまとまりを前提として,強い団結と大規模動員が可能となったのであった。そこでは庄屋・組頭などの村役人も,小前百姓と協力して封建領主に対抗しているのであるが,それが世直し一揆となると,庄屋組頭などの村役人層や,富裕商人などが小前百姓に攻撃され,打ちこわしの対象になっている点に差がある。つまり世直し一揆では村落共同体が分裂している,ということである。村方騒動が,村政の民主化や村入用の不正是正を求めて,村役人層を追求したものであるから,その面では共同体の上下分裂を意味するかも知れないが,それはあくまでも共同体の生活を望ましいものに回復したいという願いを掲げて行ったものであるから,その面をみれば世直し一揆段階とは異なる。世直し一揆段階では,すでに村落共同体のなかでは安定した立場の得られない半プロ層が中心であって,彼らは必ずしも共同体の再編強化を求めていたのではなかったという差違がある。しかし世直し一揆の主張と重なる内容が色濃くみられる,という類似性もあるのであって,つまりその前哨戦という性格もみられる,ということである。
【村役人の変質】百姓一揆においては一般農民の先頭に立って,幕藩権力に対抗した村役人層が,村方騒動の場合には,一般農民・小前農民に追及される立場に変わっているのであるが,その違いは時代の移り変わりによる面があると同時に,村役人が本来もっていた二面性でもあった。つまり村役人はもともと,一面では村共同体構成員の代表者で,全農民の利益を代表する立場にあると同時に,他面では領主の農民支配機構の末端としての機能ももっていたのである。そしてまた,農民諸階層のなかでは地主として有力農民であったことによって,小作人や小前農民と本来的に対立する側面ももっていたのであった。それをもう少し具体的にみるならば,たとえば年貢納入の直接責任を負っているのが村役人であるから,領主からの年貢納入の強制によって,村内農民から年貢を集めるさい,一部の農民がそれを果たすことができず,これを村役人が代納してやることは,村役人の当然の義務として考えられていた。そのため村役人が一定の米金を蓄積することが必要と考えられ,その蓄積のために権限を利用して一定の操作を行うことも当然のことと考えられていた。そして年貢を代納してやれば,それが未進農民への貸金として利子を生むことになったし,何らかの事情で金・米が必要となった農民に,救済の意味で賃し与えれば,それも利子を生むことになる。その結果として村役人層が高利貸の立場に立つことになり,土地集積もするようになるのであるが,それは役目柄として当然のこととされていた。この当然のこととされていた役得が,18世紀半ばごろから「不正」として追及されるようになったのであり,それが村方騒動発生の社会背景であった。
18世紀半ば,つまり宝暦・明和期からなぜこのような変化がみられるようになったかというと,一つには全国的に商品生産が行われるようになり,新興の有力農民が台頭し始め,既得権をもつ村役人の専権ぶりを批判するようになったからである。そしてその商品生産の利を農民側に確保したのは惣百姓一揆の成果だったのである。