●村 むら
アジア 日本 AD
【定義】人間が集団生活を一定の地域において恒常的定住的に行うとき,そこにムラがある。家々のムラガリが村の原義と考えられる。もっと厳密にいうと,「村」は集落(人間の居住地)と耕地との社会的結合体である。したがって縄文時代には集落があったが村はなかったといってよい。栽培が行われたのは弥生文化で,稲作農耕と鉄製農具を伴った主として大陸伝来の文化と考えられる。【村の歴史】住居と集落のごとき村の単位集団は,自然堤防・砂丘などの微高地・小沖積地をのぞむ丘陵の先端や低台地上から発掘される。竪穴で平地住居もあるが高床式倉庫もある。したがって村の立地条件を推定できる。弥生式における高地性農業集落は焼畑農業耕作地域としてあり,水田耕作とまったく異にする。古墳時代のころより湿田から乾田と灌漑とのつながりが求められている。たとえば志村遺跡のごときものは武蔵野台地の縁辺部にあり,水田耕地は台地下の谷にあった湿地である。この遺跡から721年(養老5)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍を思い出させている。このような事例はその後もいくつも現れている。
【古代の村】742〜786年(天平14〜延暦5)ごろの水田面積は,現在の反別にして105万町歩くらいである。これは10世紀前半の『倭名抄』の数字とも一致する。この開発を推進したものが,国郡制である。“百万町歩開墾令”などは,グッドタイミングであるとともに,諸施策によって開発可能な計画といってよい。とくに平野の開発,池溝と堤づくりにつとめている。湿地帯に排水路をつくり,堤づくりをして水田化可能な地域の開墾をしている。古墳中期以降には高乾耕地に池溝工法によって微高地の水田化可能を拡大する。とくに造池には新羅人の関与,秦人の干支が少なくない。渡来人の技術の導入によって可能となった。池溝の記事は『出雲国風土記』にも『出雲風土記』にもみえる。さらに谷の開発についてもみえ,谷田・山田の開発につとめ,「夜刀の神」の話もみえる。「夜刀の神」とは「谷の神」すなわち谷田の開田とかかわる話で,『出雲国風土記』では「目一つの鬼」の話となっている。
【集落立地の変化】集落の立地の理想型は谷間に小川が流れ,その周辺に泉があり,せまい谷には湧水がある。台地の縁辺に家屋をつくり,台地を下りた谷の腰に井泉を掘ることのできるところである。そして高台の地には大きな井がある。万葉の人々は掘立小屋に住み「伏慮」「曲盧」「直土」いいかえると竪穴住居趾に住む。粗放農業で直蒔,鉄製の鎌を用いていた。条里耕地は水田であって,用水は人工灌漑である。条里は人工灌漑の進歩したあり方である。池を設けずに条里を設立したものも少なくないが,かなり池をつくっている。条里設定には湧水が大きくかかわっている。
【中世の村落】荘園ではなく中世村落を研究すると,自然村落というものが浮かび上がってくる。荘園の開発とともに大社寺による開田が進み権門体制・権門勢家の支えに用いられている。池田荘の集落は東側の広大寺池という大池が用水となっていると思うが,そうではない。池田荘の用水は違っている。道守荘は条里で低湿な荒野を排水によって灌漑したものである。
【中世村落】中世村落は平野の村の開発を進め上野国新田荘の発達も大間間扇状地の扇状地上に発達し,65〜140mにかけて存在する。この大部分は乏水地域であったから,扇頂や扇端の湧水地以外は村がつくれなかった。湧水利用で村が点在している。それによる河川灌漑地域となっている。また遠江国池田荘の場合も,天龍川下流左岸の大きな氾濫原上の微高地につくられたものである。この地は天龍川治水と大きくかかわる。自然堤防上にある散村が基本である。以上みてくると中世村落は自然村落的であることは共通していえることがらである。そのほかに豪族屋敷と垣内集落をあげることができる。一種の環濠聚落といってよい。城ノ内とか堀の内とか呼ばれる。環濠の外側には「外城」が取り巻いている。垣の内・坪の内という地名もある。もとは領主屋敷を城・水濠で囲む例は少なくない。これを中心として成立するので,豪族屋敷村と呼ぶ。奈良平野には農民的環濠というべき集落がある。200くらい存在する。それを垣内村ということができる。これは14〜15世紀に成立したものである。惣村制の発展と対応しているともいえよう。中世村落は二毛作が成立せず,まだ「片あらし」の克服過程にあった。そして門田苗代が成立するように,門田の一部に苗代をつくっている。したがって村の指導者の水と苗代支配が存在する。その一方中世には惣村の発展がみられる。その一例をあげると菅浦で多くの村民が相談して村の運営にあたっている。1346年(貞和2)ごろから約束文がある。これは土地の永代売買の禁を犯したときは処罰するという規定であった。惣の成立は共同体としての村の防衛を前提としている。惣は惣村とか惣郷と呼ばれ,神社中心に結集している。そして畿内およびその周辺地域に発展している。「惣中」ともいって団結していた。いかなる小領主権力もここまで立ち入ることはできない自立性を保持している。村人たちは乙名を中心として平等に並列したのではなく凹凸があった。かかる惣に対比されるものが在家である。文字どおり家がある。年貢賦課の単位として存在した行政村のごときものである。そのなかには複合経営が存在し,分家筋・下人・所従も存在している。百姓が在家農民のすべてをさすのか一部をさすのかよくわからない。いずれにせよ在家は小地域としての在家,小さいムラをつくっている。全面的耕作放棄・他への出作はよくないこととされていた。もちろん在家は小さいムラで,大きな郷村の一部でしかない。これがしだいに近世の村へとつながっていくのであるまいか。
【近世の村】近世の行政的村は,太閤検地によって設定されている。近世の村は1697年(元禄10)6万3,276村あった。これらの村は行政的単位そのものであった。村ごとに高がつけられ,年貢徴収単位そのもので,村役人がおり,村ごとに文書がつくられている。このように考えると,古代・中世の村は集落と耕地主体の社会的結合,自然村落と考えてよい。1831年(天保2)には6万3,540村,1834年には6万3,562村である。1888年(明治2)には北海道を含めて7万435村である。
【近世の村の形】新渡戸稲造は『農業本論』(1898)において(1)沿道村落,(2)環濠村落,(3)階段村落,(4)参雑村落,(5)田荘村落などをあげ,柳田国男は『郷土誌論』(1923)で,(1)新田百姓村,(2)草分百姓村,(3)根小屋百姓村,(4)門前百姓村,(5)名田百姓村,(6)班田百姓村に分ける。小野武夫も,(1)開発新田村,(2)隠遁百姓村,(3)豪族家敷村,(4)寺百姓村,(5)名田百姓村,(6)古代成立農村(『日本村落史考』)とある。とくに近世的変容を考えると,まず中世の村そのままではない。新田の開発が著しく進んだという事実がある。とくに大規模新田の造成が行われ,人が住み検地が行われたこと,○○新田の名がつけられたこと,開・開作・新開・籠・搦という名が多いこと。その多くは,(1)大河川沿岸の氾濫原に属する低地帯,自然堤防とその若干の後背地を除いては新田である。(2)湖沼や沿海の干拓地の多くは近世にすでに開発されている。(3)水の乏しい台地上の畑作地も開発されている。新田村の形態的特徴は耕地・屋敷地・水路・道が整然と配置されていること,比較的均等性をもっていること。村には大きい村と小さい村とがある。村境はなかなかわかりにくい。境塚とか境堀とか目標物をつくっている。一般的に近世初期以降小字が増えている。小字は生きもので新たに出現している。また小名も増えている。こうした事実は,近世に居住地域が拡大していることを示す。しかしそれが行政村としての村の枠内でまとまりがつけられていく,村切りのためそうなった。近世の村の特徴は,(1)石高制と村請制の単位,(2)共同体的性格,小地域社会結合体・村落共同体の上に立脚しているといえる。
【近代の村】村役人を廃止し,戸長・副戸長を置く,近世の村の特徴の村請制の中心である庄屋,名主などの村方三役を廃止したこと,公式には府県1大区(区長)1小区(戸長)となり,近世の村は一時きえた。そして市制・町村制という形で下からの動きに対応してあらためて近代の村づくりが進む。耕地整理が進んだこと,小字名が消えたこと,近世村が形態の上でも消えたのもそのためである。地主・小作制が展開し,小作争議が本格的になるとともに,地方改良運動が進み,いろいろな組織,うち青年会・婦人会・処女会・貯蓄組合・納税組合がつくられ,戸主会・耕地整理・養蚕組合・産業組合・信用組合などがつくられている。戦後に農地改革も行われて,近代の土地関係を変えている。しかしそれよりなにより多いのは,町村合併による村名の変化である。
〔参考文献〕木村礎『村の語る日本の歴史』1983,そしえて