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●ムハンマド

AD570 

 570ごろ〜632 イスラーム教の創始者。日本ではマホメットの名で呼ばれることが多かった。イスラームではユダヤ教のモーゼやキリスト教のイエスなどと同様に「神の使徒」「預言者」とみなされ,セム族の一神教における一連の預言者系列のなかで,「預言者の封印」つまり最後の預言者と信じられている。ムハンマドはあくまでも預言者であり,人間であるから,崇拝の対象とはなりえない。崇拝の対象は神のみである。いわゆる正統派イスラームにおいてイスラーム神秘主義の聖者崇拝を非難するのはこのためである。したがって,日本では以前にイスラーム教のことを「マホメット教」と呼んだことがあるが,それは誤まりである。ムハンマドは,アラビア半島南西部ヒジャース地方にあるメッカの町でクライシュ族のハーシム家に生まれた。メッカの起源は古く,南アラビアのイエーメンからシリアにいたる陸上通商路の宿場町として発展してきた。5世紀末に,メッカの東方山地で遊牧生活をしていたクライシュ族が族長クサイイに率いられてメッカに定住したが,6世紀には隊商を組織して仲継貿易を独占する国際的商人に成長していた。またメッカは,アブラハムの建設と信じられているカーバ神殿のある聖地で,そこには多くの偶像神が祭られていて,毎年各地からアラブ遊牧部族の巡礼が集まった。ここはまさに国際的商業の町であり,アラブ遊牧部族の宗教的中心地でもあった。ムハンマドは,彼の父アブド=アッラーフが彼の誕生前に死亡したので,孤児として叔父のアブー=ターリブ(619年没)に育てられた。ハーシム家はクライシュ族の名門ではあったが,メッカの商人社会を牛耳るほどの大商人階級ではなかった。商人であった叔父といっしょにムハンマドもシリアへの隊商に同行したという伝承がある。彼は地位も財産もなかったが,誠実な人柄で,人々にアミーン(誠実な人)の呼び名で敬愛されていた。25歳のころ,金持ちの未亡人ハディージャと結婚し,その後は経済的にも安定した平和な家庭生活を送った。このころから,彼はメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふける時間が多くなった。そのようなとき,突然神アッラーの啓示を受け,〈起きて,警告せよ〉(『コーラン』第74章2)という神の命令を聞き,自ら神の使徒・預言者たる自覚をもった。ときまさに610年のこと,40歳になるころであった。自ら預言者と自覚したムハンマドが最初に人々に説いたのは,神の恩恵の深さであった。神はあらゆるものを創造し,それを人間の役に立て給うた(第14章32・33・34)。クライシュ族も神の恩恵を受けたのだ。その昔アビシニア軍がメッカに侵入したときも,敵の象軍につぶての雨を降らせて撃退したのも(第105章),またクライシュ族の夏冬の隊商に成功をもたらせ,飢を防ぎ給うたのも神であり(第106章),ムハンマド自身も貧しい孤児から救い出され,裕富な家庭生活を神によって与えられたのである(第93章6・7・8)。人間はこの神の恩恵に感謝し,おたがいに助け合うべきことを説き,富と権力のみを求めるあまり,良き遊牧部族の精神を忘れたクライシュ族の堕落を警告したのである。この社会正義の訴えは,メッカの大商人の子弟までも含めて,若者を中心に強い共感を呼び,しだいに信者集団が形成されていった。大商人階級の指導者たちは,この新興勢力の首領ムハンマドに激しい敵意を示した。彼らとてすでに単なる迷信にまでなり下がっていた偶像崇拝擁護に熱意をもっていたわけではないが,ムハンマドの教えが祖先伝来の信仰を否定するものだと宣伝し,迫害の口実とした。彼らはムハンマドによってメッカの支配権を奪われることを心配したのである。この迫害の中心人物の一人がウマイヤ家のアブー=スフヤーンであった。ムハンマドとクライシュ族の指導者との争いは事実上宗教的争いの様相となったので,彼は神の唯一性と終末観を強調し,断固偶像崇拝の多神教反対を明確に打ち出した。クライシュ族の迫害は激しさを増し,615年ムハンマドは83名の信者をアビシニアに移住・避難させたほどであった。619年,彼の良き理解者,叔父アブー=ターリブと愛妻のハディージャが相次いで死に,彼は絶望にうちひしがれた。加えて,新たにハーシム家の家長になったアブ=ラハブがムハンマドの敵と手を組み,彼に対するハーシム家の保護を取り消した。もはや身の置き場所を失った彼は,メッカ以外で布教の地を求めたが,ターイフでも迫害にあって失敗した。たまたまヤスリブからカーバ神殿に来た巡礼者が彼の説教に共鳴し,ひそかに彼をヤスリブに迎えようと申し出た。彼はついにメッカを離れる決意をした。ヤスリブはメッカと違ってオアシスの町で,最初にユダヤ教徒が定住して農耕生活を始めた。その後アラブ遊牧部族が移住して共存していた。ムハンマド時代には,アウスとハズラジの両アラブ族が対立抗争を繰り返した。このヤスリブの内部紛争の調停者としてムハンマドが招かれたのである。彼はひそかに70余の信者とその家族をメッカから脱出させ,最後にムハンマドはアブー=バクル一人を連れ,夜陰に乗じてヤスリブに移った。622年のことであった。のちにこの年をイスラーム暦,つまりヒジュラ(移住)紀元の元年と定められ,ヤスリブを「預言者の町(メディナ)」と呼ばれるようになった。メディナにおけるムハンマドは,教団国家(ウンマ)建設の周到な計画を進め,単なる宗教家でなく,優れた政治家としての性格が強まってくる。まず,メディナのアラブのなかでムハンマドの信者となった「援助者(アンサール)」と「メディナ憲章」と呼ばれる条約文書を締結してウンマの基礎をつくったが,その基本原則は,従来のアラブ社会の部族的血の絆に代えて,イスラーム教という宗教的絆を置くことであった。また財産を棄ててムハンマドと行をともにした「移住者(ムハージルーン)」の経済的援助の一方策として,メッカの隊商を襲撃し,戦利品を獲得・分配する手段をとり,同時にクライシュ族隊商貿易に打撃を与え,その経済力を弱めようとした。またメディナのユダヤ教徒に対しては友好的な態度を示し,「メディナ憲章」ではユダヤ教徒に対して信仰の自由を認め,ウンマの構成員に加えようとしている。信者の礼拝の方向(キプラ)をイェルサレムに決め,ユダヤ教徒の贖罪の断食(アーシューラー)を取り入れたこともその表れである。これはムスリムと同じ一神教の信者であるユダヤ教徒に対して経済的援助と協力を期待したからであった。ところが,ユダヤ教徒はムハンマドを偽預言者呼ばわりして協力を拒絶したので,ついにユダヤ教徒との対決を決意した。624年,バドルの戦いクライシュ族の大軍に奇跡的大勝利を博したことがムハンマドに大きな自信をもたせた。このころからユダヤ教徒との断絶の意図を明確に打ち出した彼は,キブラをメッカに変更し(第2章142〜150),ヒジュラ暦第九月ラマダーンの断食を定め(第2章185),ユダヤ教徒から取り入れた儀礼を棄ててイスラーム独自のものに変えた。その後積極的にメディナのユダヤ教徒を追放し,625年ウフドの戦いで偽善者(ムナーフィクーン)イブン=ウバイイの裏切りによって敗戦の憂目をみたことはあったが,着実にメッカ征服の計画を進め,フダイビヤの和議でメッカの平和的征服の準備を終え,ついに,630年メッカを無血征服してカーバ神殿の偶像を破壊した。メッカの征服後は,ムハンマドの名声はアラビア全土に知れわたり,メッカのクライシュ族はいうに及ばず,アラブ遊牧部族も続々と彼と盟約を結んだ。ムハンマドは彼らにイスラームへの改宗を求め,それによって神と彼の安全保障(ジンマ)を与え,一定率のサダカを徴収した。また彼と平和を結んだユダヤ教徒やキリスト教徒に対しては,啓典の民として信仰の自由と生命・財産を保障し,その代わりにジズヤその他の税を徴収した。632年,ムハンマドはメッカに別離の巡礼を行い,メディナに帰ってまもなく没した。

〔参考文献〕後藤晃『ムハンマドとアラブ』1980,東京新聞出版局

嶋田裏平『マホメット―預言者の国づくり』1975,清水書院

藤本勝次『マホメット―ユダヤ人との抗争』1971,中央公論社

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