●ムッソリーニ
ヨーロッパ イタリア共和国 AD1883 イタリア王国
1883〜1945 イタリアの政治家。フォルリ州のプレダッピオで生まれた。鍛冶屋の父は社会党員。1901年師範学校卒,一時小学校の教員をつとめたことがあり,のちスイスに放浪中,亡命社会主義者と接触,1904年に加入した社会党内でやがて頭角を現し,1911年〜12年のイタリア-トルコ戦争に対する反戦活動や改良主義批判が認められて党中央の日刊紙「アヴァンティ」(前進)の編集長に抜擢された。だが第一次世界大戦勃発後変節して参戦論者に転向,フランスの資金援助を受け日刊紙「ポポロ=ディタリア」を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開したため,社会党を除名された。イタリアの参戦後兵士として従軍して負傷,大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱き,復員軍人や旧参戦論者を結集し,1919年3月ミラノで「戦闘ファッシ」を組織し,反革命運動を展開した。1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは黒シャツ隊と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし,1921年11月のローマ大会で国家ファシスタ党にファッシを改組して,統領に就任した。ついで1922年10月28日に始まる数万人のファシスト武装隊のローマ進軍を背景として,国王はムッソリーニに組閣を命じ,以後1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。1923年の選挙法改正,1925年の労働組合の解散・言論出版取締令の制定などを通し,1926年末までに独裁政治の基礎が固められたが,1928年9月,大評議会が国家の最高機関として認められ,権力がムッソリーニに集中,独裁体制が完成した。彼はつとにヴェルサイユ体制の打破を唱え,古代ローマ帝国の復興をめざしたが,1929年の世界恐慌の波及による社会経済の混乱を打開するために着手した膨張主義政策の第一歩は1935年10月3日に開始したエチオピア侵略であった。ヒトラーとの関係では,1934年7月25日のドルフス首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して,ムッソリーニはブレンネル峠にイタリア軍を集結して反対意志を示したことで明らかなように,最初は決して友好的とはいえなかったが,エチオピア戦争を契機として,親イギリス派の反対を退けて対ドイツ接近政策に転換,1936年7月18日に発生したスペイン内乱にも介入した。1939年5月22日,ムッソリーニは女婿のチアノ外相の反対を無視して鋼鉄協約と呼ばれる独伊軍事同盟を締結し,ドイツへの従属関係を深めた。フランスの敗北が決定的になった1940年6月10日,イタリアはイギリス・フランスと開戦,同年9月27日に日独伊三国同盟を調印してドイツとの密接な関係を確認したが,ムッソリーニの軍事指導は振るわず,日ましに不利になった戦局を前にして国民の離反は増大した。1943年7月,連合国軍のシチリア上陸を契機として,支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し,ムッソリーニは軍部のみでなく,ファシストの指導者のなかでも孤立していることが明白になった。古参ファシストの一人であったグランディは王党派でもあり,ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対の有力者であったが,7月25日,ムッソリーニの責任を追求した大評議会はグランディの動議を可決し,ムッソリーニは失脚,同日逮捕された。後任として国王エマヌエーレ3世の任命したバドリオ元帥の新政府は9月8日に連合国に無条件降伏した。幽閉中のムッソリーニは同月12日にドイツ軍に救出され,一時,北イタリアにナチスの傀儡政権“イタリア社会共和国”の樹立を宣言したが,1945年4月,連合国軍の進撃を避けスイスに脱出する途中,コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに発見され,同月28日に銃殺され,死体はミラノの広場にさらされた。〔参考文献〕フェルミ,柴田敏夫訳『ムッソリーニ』1967,紀伊国屋書店