●ムシル
ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1880 オーストリア=ハンガリー帝国
1880〜1942 オーストリアの作家。ムージル・ムージール・ムジールなど種々の読み方がなされている。チェコ系の固有名詞であるため,ドイツ・オーストリアではそのような読み方がなされたが,彼自身はとくにどの呼名で呼ばれたいとは思わなかった。1880年,かつて大学でも教鞭をとったことのある技師アルフレートの一子として,オーストリア西部のクラーゲンフルトに生まれた。父のすすめで,1892年よりアイゼンシュタット陸軍幼年学校,1894年よりメーリッシュ・ヴァイスキルヘンの陸軍士官学校に在学,砲術学を学び,工学に対する能力と興味をみいだした。1897年ウィーン陸軍工科大学に入学したが,翌年軍人への道を断念,父のつとめたことのあるブリュン工科大学で機械工学を専攻,1901年,技師のための国家試験に合格。1902年シュトゥットガルト工業大学の助手となり,そのかたわら,第1作『若きテールレスの惑乱』を創作。1903年より5年間,ベルリン大学において,哲学,とくに論理学・実験心理学を研究。1905年10月,膨大な未完の長編小説となった『特性のない男』に着手した。1906年個人の色彩感覚を分析するためのムシル式色彩回転器を発明。1908年「マッハ学説の価値判断について」の学位論文によって,哲学・物理学および数学の学位を取得,これによって大学教授への道が開かれたが,あえて自由作家の道を選んだ。その後2年間,ベルリン「ノイエ・ルントシャウ」誌の編集に関係するが,第一次世界大戦勃発により,将校として従軍,末期にはイタリア戦線に参加,そのときの体験が『つぐみ』第2話に現れている。1918年終戦によって再び新聞関係の仕事に復帰。1920年ベルリンに滞在の折,出版主 E.ローヴォルトと知り合った。これがのちの彼の難解と称せられる作品を,世にひろめる絶好の出会いとなった。その後ウィーンの陸軍省に顧問として勤務しながら,演劇評論・エッセーの執筆にあたった。1923年から7年間,オーストリアにおけるドイツ語作家保護協会の副会長および理事をつとめるあいだに,ホーフマンスタールと親しくなった。この年間は彼にとっては多作の年で,2編の戯曲,そして珠玉と呼ばれている短編集『三人の女』が発表されている。1931年に『特性のない男』第1巻が出版され,一応の成功を収めた。その後,もっぱらベルリンで創作活動をつづけるが生活は楽ではなく,心ある人々の支えによって生計が営まれた。1933年『特性のない男』第2巻第1部が出版された。ヒトラーの第三帝国出現により,ウィーンに移住,生活はますます窮乏に拍車をかけるばかりであった。1935年パリにおける「文化擁護のための国際作家会議」で講演。1936年小品集『存命中の遺稿』を出版。脳卒中におそわれるが大事にいたらなかった。1938年ヒトラーの侵入を逃れ,イタリア経由チューリッヒに亡命した。ドイツ・オーストリアでは,彼の書物は禁書となった。1939年ジュネーヴに移り,貧窮と孤独のなか,わずかな援助のもとで,あの長編の執筆に心血を注いだ。戦況がますます激しくなるなかで,アメリカに亡命中の作家たち,とくにトマス=マンなどによる救出・亡命計画が立てられるが,実現されないまま,1942年帰らぬ人となった。荼毘に付された灰は,彼の遺志により未亡人の手でジュネーヴ近郊の森にまかれた。したがって彼の墓はない。インゲボルク=バッハマン(1926〜73)は,〈彼の念頭を終始離れなかったことは『詩人は哲学体系まで立ち入ることはできないし,またしてはならない』ということであった。それゆえ,ムシルは哲学者のような体系全体を示すことはなかった。ただ部分的な解答をすることはあったが,解答そのものではなかった。彼が求めたのは,紋切型で,因襲的な考え方ではなく,熟慮すること,正確に,勇気をもって考えることであった〉と述べている。ムシルの作品はこのような実験の立場であった。