●無産政党 むさんせいとう
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一般に「無産階級の利害に立脚する政党」(1924年,大正13年6月,政治研究会の提唱)をさす。日本では,通常,明治後期から第二次世界大戦前までの,労働者・農民をはじめ無産者大衆の利害を代表する政党のうち,共産党を除く諸党の総称として慣用される。その歴史をたどると,1901年(明治34)5月に,安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・木下尚江・西川光次郎らによって組織された社会民主党に始まる。同党は,普通選挙権の獲得によって,議会を通じて平和的に社会主義を実現することを宣言したが,即日禁止された。ついで,1906年2月,堺利彦を中心に日本社会党が組織されたが,社会主義の発展を恐れた西園寺内閣によって,直接行動論(アナルコ=サンジカリズム)の台頭による過激化を理由に,1年後に禁止された。以後,1910年の大逆事件の大弾圧により,社会主義運動は“冬の時代”を余儀なくされ沈滞するが,第一次世界大戦・ロシア革命・米騒動などを背景に再び高揚をみせ,無産政党結成の機運も高まった。1920年12月には,日本社会主義同盟が結成され,社会主義勢力を集結させる役割を果たすとともに,内部がイデオロギー的対立をし,分解していった。こののち,1922年7月には,堺利彦・山川均らによって,日本共産党がコミンテルン(国際共産党)の指導のもとに,非合法に結成されたが,合法的無産政党の結成はこれに大分遅れることになる。当時,社会主義者の組織・労働組合などでは,左右の分裂による動揺がつづいており,日本労働総同盟の分裂は,1925年に左派が別に日本労働組合評議会を結成するにいたった。この分裂は無産政党結成にも影響を与えてゆくことになった。1925年普通選挙法の成立を機に,単一無産政党の結成が呼びかけられたが,右派の総同盟と左派の評議会の参加を得られず結局,中間派によって農民労働党が結成されたが即日禁止となった。1926年左派が労働農民党を,右派が社会民衆党を,中間派が日本労農党を,それぞれ結成し,単一無産政党樹立の可能性は消え,その闘争力は,著しく弱められた。労農党(労働農民党)は評議会・日本農民組合を,社会民衆党は総同盟・日本海員組合・官業労働総同盟を,日本労農党は日本労働組合同盟・日本労働組合総連合・全日本農民組合を,それぞれ支持団体としていたが,労農党は,評議会を中心とする左翼勢力の指導の下で共産党の合法組織の観を呈し,社会民衆党は,軍国体制に取り込まれた日本海員組合・官業労働総同盟の支持のもとで軍部との結び付きを強化した。中間派の日本労農党は,労農党との対立のなかで,決議と声明書に終始し,議会万能主義へと陥っていた。このようななかで,1928年(昭和3)2月の第1回普通選挙においては,無産政党は,計8人当選,総得票47万1,000の成果をあげた。が,選挙後の3月15日共産党を中心とする左翼勢力に大弾圧が加えられ,4月10日には,労農党も結成禁止の処分を受けた。のち,無産政党は離合集散を繰り返したが,1931年7月には,労農・全国大衆・社会民衆党合同賛成派の3者の合同により,全国労農大衆党が結成され,さらに1932年7月には,これが社会民衆党と合同して,社会大衆党を結成し,一応の無産政党の統一がなされたが,その内実はきわめて右翼的なものであり,軍部ファシスト勢力と接近し,帝国主義政策を支持する態度をとった。これに対し,合法左翼勢力は,1936年5月,労農無産団体協議会を結成し,反ファッショ人民戦線運動の拡大を決議し,翌年3月には,日本無産党を結成し,わが国唯一の反ファッショ勢力として活動したが,同年12月,“人民戦線事件”の弾圧を受けて結社禁止となった。社会大衆党は1937年の総選挙では37名当選の成果を得たが,そののちも,ファッショ勢力との関係を強化し,太平洋戦争開始前年の1940年7月,自発的解散の形をとって消滅した。以後,敗戦まで無産政党は存在しなかった。敗戦後の1945年(昭和20)11月,旧無産各派が合同して日本社会党が結成された。戦後は大勢力の党となるにいたっている。