●ムガール帝国 ムガールていこく
アジア インド AD1526 南インド・ヒンドゥー王朝
1526年から1858年までインドを統治したイスラーム教徒による帝国。1526年,ムガール朝の創始者バーブル(1483〜1530)は,パーニーパットの戦いでイブラヒーム=ロディーに勝利して,デリー・アグラなどを占拠して,ムガール朝の基礎を築いた。バーブルはティムールを父方の祖先に,チンギス=ハンを母方の祖先にもつフェルガーナ出身者である。1529年には,メワールのラーナー=サンカを破り,ラージプートの抵抗を崩した。1528年にはアフガン系支配者を破り,ビハール・ベンガルへも権力を伸ばした。この三つの勝利により,バーブルは北インド全体の覇権を握ることができた。ムガール帝国には19人のイスラーム教徒の君主が在位したが,最初の6皇帝が偉大なムガールと呼ばれている。すなわちバーブル(在位1526〜30)・フマユーン(1530〜56,ただし1540〜55は統治していない)・アクバル(1556〜1605)・ジャハーンキール(1605〜27)・シャー=ジャハーン(1627〜58)・アウラングゼーブ(1658〜1707)の6人である。フマユーンは,父の跡を継いだが,メワールのラージプートからの同盟の申し出を断わって離反を招いた直後,アフガン系のシェール=ハーンも1537年反乱した。フマユーンは,これに敗北したためベンガルとビハールを失った。1540年には,カナウジの戦いに敗れてインドを追われ,ペルシアに逃れた。ペルシアからの助力に加えインド内の内紛に乗じて1555年に再びデリーを奪還したが,不慮の事故で死んだ。その子アクバルは真のムガール朝の創始者といわれる。1556年には安定した領土さえもたなかったが,同年パーニーパットの戦いで,アフガン系のヒムーを破り,パンジャブ・デリー・アグラなどの地域を固めたのを皮切りに,北インド全域とデカンの一部を支配領域に入れた。彼は,これを15のスーバ(州)に分けて統治した。彼は征服者であるのみならず,行政能力に長けていて,マンサブダーリー制と呼ばれる官僚制を敷き,側近のトダル=マルの進言で検地・金納・耕作者との直接取り決めにもとづく地租制を樹立した。彼はまた,それまでのイスラーム教徒の君主と異なり,ヒンドゥー教徒に寛容な政策を施した。たとえば,ヒンドゥーにのみ課せられていた人頭税(ジズヤ)を廃し,トダル=マルのようなヒンドゥー教徒の優秀な人材を積極的に登用し,ヒンドゥーの王女とも結婚した。この寛容な政策は,ヒンドゥーの支配層であるラージプートをムガール朝の支持者に変えた。ムガール=ラージプート同盟が,カーブルからベンガルまでの広大なアクバルの帝国の存在を可能にした主因であった。彼はまたインドでの宗教対立を解くため,折衷的なディーネ=イラーヒーという新宗教を創始したが,失敗に終わった。
ジャハーンギールは,ラージプートの母とアクバルとのあいだの長子であり,父の寛容政策をある程度受け継いだ。即位直後に,祖父アクバルを継承せんとした彼の長子アシール=ホスローの反乱を鎮圧した。ジャハーンギールはジェイムズ1世からの書簡を携えてきたイギリス東インド会社のウィリアム=ホーキンスや,サー=トマス=ローなどを迎えて歓待し,イギリスのインドでの地盤はこのころから固まっていった。ジャハーンギールの妻ヌール=ジャハーンは,彼の治世に大きな政治力を発揮した女性として知られている。5代皇帝シャージャハーンは,最盛期の統治者である。彼は赤城(レッド=フォート)を含むデリーを建設して,首都をアクラからデリーに移した。そのためオールド=デリーは,シャージャハーナーバードと呼ばれた。愛妃ムムダーズ=マハルのために22年の歳月をかけたタージ=マハルの建設も彼の手による。しかし,晩年は彼の息子アウラングゼーブにより,アグラ城に幽閉されて寂しい最期であった。領土の拡大はその後もつづき,アウラングゼーブのときには北はヒマラヤ山麓から,南はコモリン岬まで領土におさめた。しかしアウラングゼーブの宗教的不寛容政策はヒンドゥーの離反を招き,マハーラーシュトラからはシヴァージーに率いられたマラータ勢力,パンジャブからはシク教徒・ラージプタナのラージプートと次々に叛旗をひるがえした。また,ムガール皇帝位の継承争いは皇帝権力を弱体化させた。最後に軍備力に優れたヨーロッパ勢力は,ポルトガルに始まりオランダ・イギリス・フランスと次々とインドに進出し,インド内部の争いに介入して勢力を伸長させて,ムガール帝国を衰亡させた。ムガール帝国衰亡の原因は,軍備の不十分さ,とりわけ海上軍をまったくといってよいほどもたなかったことにも帰せられる。ムガールの海軍は,主として河川航行用の大小船舶から構成されていて,公海上の戦闘に耐えなかった。したがって,海軍力に優れたヨーロッパ勢力の一方を討つために,他方の支持に頼るという結果を生み,最終的に侵略を許すことになったのである。後期ムガール朝の以下の13人の皇帝は,いずれも弱体である。シャー=アーラム1世(在位1707〜12)・ジャハンダル=シャー(在位1712〜13)・ファルクシャル(在位1713〜19)・ラフィド=ウッダラジャト(在位1719)・ラフィーウッダウラト(在位1719)・ネクシャル(在位1719)・イブラヒーム(在位1719)・ムハンマド=シャー(在位1719〜48)・アフマド=シャー(在位1748〜54)・アーラムギル2世(在位1754〜59)・シャー=アーラム2世(在位1759〜1806)・アクバル2世(在位1806〜37)・バハードゥル=シャー2世(在位1837〜58)。18世紀を通じて進行する弱体化がいっそう促進されたのは,ペルシアのナーディル=シャー(1739)とアフガンのアフマド=シャー=アブダリの侵入であった。とりわけ1761年,アクドのナクーブ=シュジャーウッダウラに助けられたアフマド=シャー=アブダリが,ムガール皇帝シャー=アーラム2世とマラータ勢力の同盟軍を破ったときに,ムガール帝国は致命的な打撃を受けた。それ以後は,ほとんど皇帝位は名目にすぎない。最後の皇帝バハードゥル=シャー2世は,いわゆるセポイの反乱に際して復権宣言をして反乱の側に立ったため,1858年廃位され,ビルマのラングーンに流刑となり,1862年に死んだ。
【行政制度】第3代皇帝アクバルが確立した。中央では皇帝が独裁権をもった。皇帝の下には,税や財政を司るディーワーン,軍事を司るミール=バクシ,商館や倉庫業務に携わるミール=サーマーン,司法の長たるサドルッスドゥールなどの諸大臣がいた。ムガール朝の官僚組織は大変発達していて,マンサブダーリー制と呼ばれる。マンサブダールと呼ばれる軍人官僚は,10人の指揮官から1万人の指揮官まで33の段階に分かれ,その段階に応じて俸給が支払われる。この俸給に対し,マンサブダールは一定の部隊を維持し国家のために提供しなくてはならない。8,000とか1万のような高級なマンサブは皇族のものであった。マンサブダールは世襲でなかった。アクバルは現金でマンサブダールに支払ったが,後代おのおのの位に相当する収益のあるジャギール(施与地)や税の割当てを支払いにあてる方法が導入された。
ムガール帝国の地方制度は,スーバ(州)−サルカール(県)−パルガナ(郡)からなる。アクバルは15のスーバに分けたが,ジャハーンギールのとき17,アウラングゼーブのとき21とスーバの数は増大した。州の長官はスーバダールと呼ばれ,皇帝に任命されたが,権限は財政を司る州のディークーンと二分されていて,両者が牽制しあって反乱をおこさないようにと配慮されていた。各サルカールにはファウジダールが置かれて司法・警察を司った。重要都市にはコートクールが配置されて秩序を維持した。
ムガール帝国の財源は,主として地租である。そのほかに関税・貨幣鋳造・武器などの独占製造・専売収入・人頭税・戦争の賠償金などがあった。地租は総生産高の3分の1という規定で,直接農民から官吏が取り立てることになっていた。地租は物納もあったが金納が奨励され,価格を元にした計算の上に生産物の価格が定められた。しかし,全国的な統一制度はついにできなかった。
〔参考文献〕佐藤正哲『ムガル期インドの国家と社会』1982,春秋社
石田保昭『ムガル帝国』
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