●昔話 むかしばなし
アジア 日本 AD
民間説話あるいは口承文芸の一類。冒頭に“むかしむかし”という句を置いて語り始める口頭の伝承。土地によっては,むかしこ・とんとむかしなど,さまざまな名称をもつ常民の文芸。昔話は本来研究者間の用語である。伝説や世間話とともに民間に行われる代表的な口頭伝承の一つ。冒頭に“むかしむかし”の発端の句を擁し,その完結に“どっとはらい”などの特定の結語を置く。すなわち,前後に対応する語句の存在によって,そこでの物語の開始と達成の意を告げるものである。この独立した昔話の様式や完備した伝承の形式が,伝説や世間話と著しく異なる点である。昔話は口頭伝承のなかで,他と性格や形態を異にし,整った文芸性をもつという特性がある。【特性】約束事:昔話には,物語を語るにさきがけて前置きとか誓いともいえることばがある。たとえば,鹿児島県の大隅半島では今でも「むかしのことなら,あったかねかったか知らねども,ねかったこともあったことにして聴いてくれ」という。東北地方にも同じような例がみられる。どの句にも中途半端な気持で昔話を聴いてはならぬという気分を強く促すものである。注目すべきはそれらに,神語りの印象にも通う,独自の韻律が内在することであろう。
順序:昔話には語るにさいして相応の順序と手続きがある。まず“最初に語る昔話”があって,語りの場を形成する。そうした特別の機能を有する話には「河童火やろう」などが“話の三番叟”の名称を与えられて行われる。昔話の雰囲気をつくり,語りの場を盛りあげる設定をする特殊な語りことばの響きが用意される。
相槌:昔話が語り始められると,聴く側の者には,やかましく相槌が要求される。土地により著しく異なる。山形県庄内地方では,「むかしむかし」と語り出すと,「おでやれ,おでやれ」と囃す。隣接する最上地方では,「おっとう」と応ずる。佐渡では「さーす」「さーそ」新潟県栃尾市では「さあんすけ」と受ける。徳之島では「はいはい」とされる。いずれも非日常の特殊な用語であることに注意したい。
儀礼のことば:昔話が始まると,聴き手には催促のことば,語り手をねぎらう礼のことばがある。語りをせがむのは「こどとや,こどとや」「もしとず,もしとず」など地方によって促す意味の込められたことばが用いられる。語り手を慰労しその語りの場が無事に収束した礼詞には「ご苦労でやした。おもしろうござった」などのいい慣わしがみられる。
禁忌:元来昔話には,それを語ること自体に厳しい禁忌もしくは制約を付随する。まず“昼むかし”を忌み厳しく戒める。すなわち,語るときを選ぶ。不用意に昼むかしをしてはならないと禁じるのは,昔話が本来が夜語るもの,つまり常民のあいだにおける神聖な夜語りとしての系譜にあることを意味しているのではないかと思われる。その禁忌を侵犯したときには「ねずみに小便かけられる」「船に乗ると難破する」など,身辺に不吉な事態のひきおこす制裁のことばが残されている。また語りの場では,収束締結の約束事がみられる。「百物語は化物が出る」として,あまりいつまでも語りつづけるのを忌避し,それを戒めた土地は多い。
【語り手】ひと時代前までの村内には,目立って数多くの昔話を語りうる年寄りがいた。こうした人を“語り爺さ”とか“語り婆さ”として大切にしてきた。村の古老といわれる類の人である。こうした老人は,たとえ文字は知らなくとも,きわめて記憶力がよく,あたかも古い時代の“語り部”のような存在である。語りは,多く囲炉裏端でなされる。囲炉裏の火の前で,ヨコザと呼ばれる主人の座居する正面,あるいは主婦の座るカカザから,客人の座キャクザや家で働く人や若い者の座るシモザにむけて,昔話は語られてきた。聴き手は,シモザやキャクザにきちんと座って,正月などの夜語りを享受するのである。村内の共通の承認を得る“語り爺さ”“語り婆さ”は,多くその地域で重きを置かれる家筋や家格にあり,ほかの人々とは異った存在と格別の位置を占めている。
【分類】昔話は,佐々木喜善によって最初の分類が試られた。しかし佐々木の行った5種類の説話群の分類は,まだ確固とした概念規定がなされずに,客観的基準とはなしえなかった。1934年(昭和9)柳田国男が明らかにした「昔話の分類に就いて」(「旅と伝説」)が,その実質的な嚆矢である。柳田は,その独自の見解を体系づけ,1948年(昭和23)『日本昔話名彙』を上梓した。それは日本の昔話を(1)完形昔話,(2)派生昔話 に大きく分類・整理した。大要は次の通りである。(1)完形昔話(誕生と奇瑞・不思議な成長・幸福なる婚姻・まま子の話・兄弟の優劣・財宝発見・厄難克服・動物の援助・ことばの力・知慧のはたらき),(2)派生昔話(因縁話・化物話・笑話・鳥獣草木譚・その他)
これによると,柳田の“完形昔話”は人の一生の物語を意図すると思われる。物語の主人公は,いずれも小さ子として異常かつ不思議な出生と成長を遂げて,いくつかの厄難に遭遇し,やがて幸福な婚姻にいたる。これを基本的な人の一生の完結と見なし“完形昔話”とした。そして,ほかはすべてこれからの“派生”であるとした。一方,関敬吾は国際的視野から,昔話の分類・整理を行い,昔話の比較研究を目的にした方向による『日本昔話集成』(1959)・『日本昔話大成』(1980)を世に送った。関はアアルネ=トムプソンの分類に基づいて,日本の昔話資料の整備をして,西欧の資料に直接照応し得るように図った。そこに導入された3分類(1)動物昔話,(2)本格昔話,(3)笑話は,今日広くに用いられている。その分類内容は次のようである。
(1)動物昔話(動物葛藤・動物分配・動物競争・動物餅競争・猿蟹合戦・勝々山・古屋の漏・動物社会・小鳥前生・動物由来),(2)本格昔話(婚姻―異類聟・異類女房・難題聟,誕生・運命と致富・呪宝譚・兄弟譚・隣の爺・大歳の客・継子譚・異郷・動物報恩・逃鼠講・愚かな動物・人と狐),(3)笑話(愚人譚・誇張譚・巧智譚)
柳田国男の分類は“完形昔話”を主にし,それ以外は完形からの派生であるとする。そして“完形昔話”に昔話の古型もしくは古態をみい出し,“派生昔話”に二次的な物理的時間の経過をみている。
これに対する関敬吾の分類は“動物昔話”“本格昔話”“笑話”の三つの昔話群が並存するものとして位置づけられている。しかもそれらの三つの昔話間に,いっさい時間的な差異や優劣をもたないとして,関の昔話分類がなされていることは注目すべきである。関のいう“本格昔話”は柳田の分類する“完形昔話”に相当するものであり,それは人の一生を物語る通常広くにいわれるメルヘンと認識されている。しかし関が分類した“本格昔話”には,人の一生を物語るゆえに“笑話”より古いとする保証は,まったくないとして,両者同等の理解の上になっている。
【昔話と神話】今日広く用いられる“民話”の語は,Folk-tale すなわち“民間説話”の略称である。ドイツではこれをフォルクスメルヘンといい,中国では民間故事としている。関敬吾が,いわゆるメルヘンに古態を想定しなかったことは,一方で新たな問題を提起した。すなわち,かつてしきりにいわれた神話・伝説・昔話・世間話の新旧を問い,いずれが一段と古くかつその素性をたどり,より由緒あるものにするといった思想に,再検討を求めることになったのである。これまで神話を最上位に置き,その零落したものを伝説とし,昔話はさらにそれに遅れをとるもの,そして笑話や世間話は,最も落はくした存在といった認識があった。しかし,それらの画一的な評価と見解に再考を迫るものとして,関敬吾の理論は大きな意味をもつ。神話がそこにいわれるごとく“神々の物語”であるとしたならば,それに対する昔話は“常民の物語”である。その意味で,神話と昔話とはその概念は対立した両極端に位置するものと考えられる。零落や落魄のありえない昔話の素性を,そこに改めて“常民の物語”として認定すべきであろう。