●民本主義 みんぽんしゅぎ
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1910年代,茅原華山や吉野作造などの唱えた考えで,当時の官僚主義・専制主義・軍国主義を批判し,これに反対するもの。20世紀初頭,「万朝報」無署名短文(言論欄)が官僚主義に対立する語として初めて使用した。その後,茅原華山が反軍国主義という意味をつけ,あわせて国会権限の強化・政党内閣制・平和主義・自由貿易論をもそのなかに盛り込み,今日で言うデモクラシーとほとんど同じ概念とした。そのようにデモクラシーの訳語として普及していたこの語を吉野作造が採用し,それを軸として1916年(大正5)「憲政の本義を説いて其有終の美を済す」という論文を発表した。すなわち〈デモクラシーなる言葉は……今日の政治法律等の学問上においては,少なくとも二つの異なった意味に用いられているように思う。一つは「国家の主権は法理上人民に在り」という意味に,またもう一つは「国家の主権の活動の基本的の目標は政治上,人民に在るべし」という意味に用いらるる。この第二の意味に用いらるる時に,我々はこれを民本主義と訳するのである。第一の意義は全然別個の観念なるが故に,また全然別個の訳語を当て嵌めるのが適当だ。しかして従来通用の民主主義という訳語は,この第一の意味を表わすに恰も適当であると考える〉と。内務省の記録によると,〈殊に大正五年一月吉野博士が『中央公論』誌上民本主義に関する大論文を発表してより後は,苟も記者,思想家にして民本主義を論ぜざるものは其存在を疑はるかの観あるに至れり〉という状況であった。こうして,この用語は世間に多大な影響を与え広く浸透し定着していった。が,主権の主体が民衆であることを敢えて明確に断言せず,民衆のための民衆自体による政治を主張したものであった。主権論−本質論を避け,運営論−機能論の土俵に入ったもので,デモクラシーを日本に根づかせるための便法という意識が吉野にはあった。そのため貴族院・枢密院・軍閥・元老など,明治憲法体制における非民主的要素に対して鋭く強烈な批判を加えることができたのは確かであろう。吉野は東京帝国大学教授ということもあって,大正から昭和の苛酷な天皇制政府によっても弾圧されることなく,綜合雑誌の論壇を毎号のように飾る一方,赤松克麿や麻生久などの東京帝大生とともに東大新人会を結成し,早大の民人同盟・黎明会の結成にも携わっていった。実際政治の面でも1924年護憲内閣の成立に尽力し,1925年の普通選挙法制定に向けて演説などを精力的に行った。しかしロシア革命勝利の後,労働運動の急速な進展と社会主義諸思想・運動の漸次的台頭によって,吉野作造と民本主義は壁に突き当たらざるを得なかった。吉野自身,いわゆる右派社会民主主義とは両立できるが「過激主義(ボルシェヴィズム)」,つまり革命主義とは相容れないと認めていたからである。それはまた大杉栄など当時の革命派からも論難されていたところであった。つまりデモクラシーの仮面はかぶっているが,人民を主権の主体として明確に設定していないがゆえに,天皇制−現ブルジョワ体制と根本的に対決し得ないという批判である。当時,植民地朝鮮に対する暴虐的な憲兵政治を黙視する潮流が大勢を占めていたが,吉野や中野正剛・緒方竹虎・石橋湛山などの民本主義者は,その統治の仕方を批判するところがあった。彼らの間に多少の違いはあるものの,概して武力による統治を否認し「文化」政治を謳歌する者から徹底化せよと主張する者までいたが,日本となんらかの意味でつながっている“自治”を許容するというのが彼らに共通した考えであった。そのなかで,石橋と初期の社会主義者だけが朝鮮放棄つまりその独立と解放を認めるという考え方であった。後のアナキスト系とボルシェヴィキ系も,帝国主義本国・日本の革命が第一であり,それが達成されればひとりでに植民地=朝鮮も解放されると考え,植民地解放運動の重要性を軽視していた。〔参考文献〕岡義武編『吉野作造評論集』1975,岩波文庫