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●民法典論争 みんぽうてんろんそう

アジア 日本 AD1889 明治時代

 ボアソナードを中心として起草された民法草案(1890年・明治23年4月21日公布,「明民法」と言う)を施行すべきか否かをめぐって,1889年より1892年まで政界・学界で行われた論争。明治初期において,法典の整備を急いだ動機には,国内体制の近代化という内在的動機と,不平等条約(とくに治外法権)撤廃のためには近代的法典をもつことが不可欠だという外在的動機があった。日本政府は諸外国よりお雇い外人を招いて諸法典を起草させた。1879年3月,大木喬任司法卿はボアソナードに民法典の起草を委嘱し,1880年には元老院民法編纂局,1886年には司法省の管轄へと所轄が移ったが,終始ボアソナードが磯部四郎・箕作麟祥などフランス法専門家の助力を得て起草の中心にあった。第1編「人事編」を除いては,ボアソナードがフランス語で原文を起草し,それを和訳して討論・修正の上原案とするという形式がとられたのである。草案は1888年中に審議を終え,1889年1月24日元老院に提出された。ところがこの間に,明治14年の政変を契機として,政府はドイツ法を模範とする方向に立法政策を転換し,商法典の起草をロエスラー,民事訴訟法典の起草をテッヒョーというドイツ人法律家に委ねた。また社会一般にナショナリズムが高まり,翻訳法典に対する批判的雰囲気が広まった。元老院で民法草案を審議していた1889年5月,東京大学卒業生の団体「法学士会」が,法典編さんの拙速を戒め,原案が日本固有の慣習を顧慮していないこと,フランス法的な民法典とドイツ法的な商法典の調整がなされていないことなどを批判する声明を発表した。これを契機として,延期派と断行派の間での激しい論争が始まったのである。この論争は,19世紀初頭のドイツにおけるサヴィニー=ティボー論争と同様に,自然法論に立ち進歩的な立法を表す民族に普及させようという考え(ティボーの統一法典編纂論)と,法は民族精神の表れであり「つくる」ものでなく「なる」ものだとして,外国法典の導入に否定的な考え(サヴィニー歴史法学)の対立であった。そしてこの論争は当時イギリス法を中心として研究教育していた東京帝国大学・イギリス法律学校(現在の中央大学)と,フランス法を中心としていた司法省法律学校・明治法律学校(現在の明治大学)・和仏法律学校(現在の法政大学)の学閥上の対立でもあった。フランス法的な法典ができると自分たちの勉強した法律知識が役に立たなくなるという職業的利害もからんでいたと思われる。それでも元老院は1889年7月27日,多数決でこの原案を可決し続いて枢密院の諮詢を受け,1890年4月21日,法律第28号として公布された。ただし国民に周知させる期間が必要であるとして,施行は2年以上後の1893年1月1日とされた。日本人の起草した人事編は同年10月7日に法律第78号として公布され,施行は同じく1893年1月1日とした。1890年11月に第1回帝国議会が開かれると論争は議会をも舞台として一層激化し,東京帝国大学教授,憲法学者の穂積八束が有名な『民法出デテ忠孝亡フ』という論文を公刊するなど,激しいイデオロギー論争に発展した。1892年5月に開かれた第3回特別議会において,貴族院の村田保議員が,民法・商法施行延期法案を提出,5月28日貴族院で修正可決,6月10日衆議院で可決された。延期は当然再検討を意味するもので,1893年3月,第二次伊藤内閣は法典調査会を設け,ドイツ民法第1草案(1888)をモデルとする新民法草案を起草することを決定,梅謙次郎・富井政章・穂積陳重を起草委員として新草案がつくられ,財産編は1894年4月27日に公布,1898年7月16日に施行され,親族・相続編は1898年6月21日公布,翌年7月16日に施行された。この「新民法」も,フランス法派の梅謙次郎の活動などにより「旧民法」の大きな影響を受けている。