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●民族大移動 みんぞくだいいどう

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 広義には世界史上の諸民族によるさまざまな移動をさすが,狭義には4〜6世紀ごろのゲルマン民族とそれにかかわる周辺諸民族の移動を言う。

ゲルマン大移動の原因】ゲルマン民族は本来バルト海沿岸に原住していたが,しだいに南方に拡散し,紀元前後には,ライン・ドナウ両河の北辺にまで広がってローマ帝国と接した。2,3世紀になると,彼らの一部は傭兵やコロヌスとしてローマ領内への漸進的移動を行い,4世紀末からは大集団による大移動を開始したのである。この大移動の原因としては次の諸点が指摘される。[1]人口の増加と土地不足。ゲルマンの居住地は寒冷な森林地帯であり,土地生産力に乏しかった。したがって,土地が支え得る人口には限度があり,それを超えた場合には新しい土地を求めざるを得なかった。一方,土地共有の原則が崩れて私有化が進行した結果,大多数の無産者が生まれ彼らは新しい生活の基盤を別の世界に見出す必要があった。[2]穀物不足。ゲルマン人は古くから牧畜・狩猟中心の生活を営んでおり,穀物生産については積極的な姿勢に欠けていた。しかも,大移動開始前後には気候の急変で凶作が続いたと推定され,穀物不足が深刻化していた。[3]民族性。彼らは定着生活をしていたが,その定着性は必ずしも強固ではなくむしろ機動性に富み,何らかの要因があれば容易に居住地を離れることができた。[4]フン族の侵入。フン族は勇猛な遊牧騎馬民族で,もとはアジアの草原地帯にいたが,4世紀頃南ロシアに移住しその世紀後半にはゲルマン居住地へ侵入した。これが大移動を誘発する直接的な引き金となったのである。

【大移動の経過】黒海北岸に侵入したフン族により,ゲルマン諸族中の東ゴート族が征服され西隣の西ゴート族も圧迫された。そのため西ゴート族は375年に大挙してドナウ川を越えローマ領に入った。ふつうこれをもってゲルマン大移動の始まりとしている。西ゴート族はバルカン半島をめぐった後イタリア半島を経てイベリア半島に至り,そこに西ゴート王国を建てた。一時フン族に支配されていた東ゴート族は,テオドリックの指導下にイタリア半島に入り東ゴート王国を建国した。続いて,ヴァンダル・ブルグンド・ランゴバルドなどの諸部族も次々に南下した。ヴァンダルはイベリア半島に一時定着したが,やがて西ゴートに追われて北アフリカに渡り,カルタゴを都に王国を建てた。ブルグンドは北ドイツからガリア南部に入り,ランゴバルドはやや遅れて北イタリアを征服してそれぞれ建国した。このような東ゲルマン諸族の活動は西ゲルマンにも刺激を与え,フランク族はライン川下流地域からガリア北部に入り,アングロ=サクソン族はブリタニアに渡って先住のケルト人を駆逐し,75国を建てた。一方,大移動のきっかけをつくったフン族は,5世紀前半アッティラに率いられて西進しガリアにまで侵入したが,カタラウヌムの戦い(451)に敗れて後退した。なお,ゲルマンが移動した後の東ヨーロッパ一帯にはスラヴ民族が広がり,西スラヴ(ポーランド人・チェコ人)・南スラヴ(ルーマニア人・セルビア人)・東スラヴ(ロシア人)に分化した。

【大移動の性格と意義】ゲルマン民族の移動は,単に兵士だけでなく,家族を伴い家畜や財産をになって部族の大集団で行われた。そして,その移動はただちにローマ帝国への侵入・征服を意味したのではなく,多くの場合,帝国への軍事的奉仕と引き替えに占住地を与えられ,その後より豊かな土地を求めて移住したのである。しかも帝国内に入ったゲルマン人の数はローマ人の3%足らずであり,人口・文化ともローマの方がはるかに優っていた。したがって,ゲルマンの移動によってローマ帝国が滅ぼされたとするのは早計で,帝国滅亡の真の原因は帝国のうちに内在していたと考えるべきである。とは言え,この大移動のもたらした意義は大きく,ゲルマン的要素がローマ的要素に加わりやがてヨーロッパ文化圏が構築される契機をなしたのである。