●(2/2)
◆明(1/2)を見る◆
明 みん
【社会】皇帝を頂点とする王侯貴族と文武官僚・郷紳を支配層とし,庶民・奴婢などを被支配層として,明代社会は構成された。うち,奴婢などは賤民,他は良民と呼ばれた。皇帝の諸子は分封されて王と称し,王府を建てて世襲したが,子孫の増加とともに中央から支給される禄米などの財政がその問題となった。歴代の功臣・外戚などは公・侯・伯の封爵を受け,多くはそれを世襲して貴族層を形成した。官僚は科挙出身を常道としたが,そのほかに恩蔭・捐納による官僚も稀ではなかった。官僚は退職後もその身分を失わなかったがその俸給はきわめて低く,ために役得・収賄や特権利用によって私財を蓄積する風が強く,郷紳も含めて詭寄・投献などの方法で土地を集積し不在地主化することが多かった。官僚には原籍回避の制があったので地方の実務は胥吏が担当したが,胥吏もまた私利をはかって民衆を苦しめた。郷紳は退職官僚や官僚候補の学生などによって構成され,郷村の教化・秩序維持などに一定の役割を果たした。庶民は軍戸・匠戸・竈戸・民戸などの戸籍に分隷されその職業を世襲した。民戸のうちの土地所有者は里甲制に編成されたが,土地をもたない佃戸や傭工は畸零戸(きれいこ)として里長戸・甲首戸に付属し,法的には徭役免除であった。中期以後,官僚や商人の不在地主が多くなると,佃戸はしだいに地主の監視から離れ,貨幣経済の進行に対応する商品作物の栽培や農村手工業に従事するようになり,社会的自覚の高まりとともに抗租運動を頻発させた。庶民の奴婢所有は認められなかったが,種々の手段によってこれを所有して家人と称する者も多かった。明末の江南では,奴婢を中心勢力とした奴変も起こっている。傭工は初め隷属度の強い長工が多かったが,しだいに商品作物栽培従事者や都市・農村の手工業従事者を中心に短工が多くなり,17世紀以後,傭工の乱が各地に続発した。中期以後の不在地主による大土地所有の展開と増税政策などは,中小地主・自作農をしだいに解体して佃戸・傭工などの数を増し,彼らによる反乱を起こさせた。とくに南方では,あふれた人口が海外に流出し,後の華僑の基礎をつくった。
【経済】王朝交替による荒廃から明初には現物経済が復帰し,農業は主穀生産に主力がおかれたが,中期以後の都市商工業の繁栄と呼応して,農村にも商品作物の栽培と副業的家内工業が展開し,農業は市場向け産品の生産に移行した。とくに松江一帯と河南・山東を中心とする棉花栽培と綿紡績業,湖州一帯と四川を中心とする桑栽培と養蚕・絹織物業が注目すべきものであった。長江デルタにおける商品作物栽培と手工業の発展は,湖広を穀物の主要生産地とし,〈湖広稔らば天下足る〉の俚諺を生んだ。また明末には,海外種の甘藷・玉蜀黍・落花生・煙草などの新作物の栽培も普及した。長江デルタの農村繊維手工業などの展開は,しだいに都市手工業の繁栄をもたらし,各地の立地条件による地方特産物の出現を促した。これらの手工業部分では,明末になると上海の織布業・蘇州の絹織物業・淮浙の製塩業・景徳鎮の窯業などにマニュファクチュア的生産組織を有する者も現れ,近代への傾きを見せ始めた。しかし,多くの生産者は在地の商人に,在地商人は客商に従属し,客商は多く国家権力に結托していたから,生産者が独自の拡大再生産を行い販路を掌握して,いわゆるブルジョワジー化することはなかった。しかし,農村副業の展開が広汎な農民運動に果たした役割は無視し得ない。なお,銅・鉄など鉱山業にも雇傭労働による生産組織が出現していた。農村・都市の手工業の発展は,明初における国内産銀の増加と16世紀以降の外国銀の流入による銀の流通の拡大などと相まって,全国市場と大商人の形成をもたらした。江南の諸生産物が北方の国都・辺鎮に運搬される遠距離流通を担う客商の活動は,開中法の実施によって促されたものであるが,中期以後,全国一円市場を形成するとともに彼らの利潤を増大させた。とくに山西商人と新安商人はその二大勢力であって,各地に設置された会館・公所を通じて活躍した。彼らはその利益を主として土地に投資し,商人が地主化するとともに同族から官僚を生み出して,官僚・地主・商人が同一層に属するという支配構造をつくり上げた。
【文化】異民族モンゴルを逐って成立した明の学問・思想は,朱子学の復興から始まった。太祖の創業を助けた劉基・宋濂や方孝孺らは朱子学者であった。1384年(洪武17)に科挙制が採用され,国士監が設立されると朱子学は官学とされ,成祖時代に『四書大全』『五経大全』『性理大全』が作製されると朱子学は形骸化し科挙の手段と化した。呉与弼・胡居仁・陳白沙らは,朱子学から出てそれを批判し主静の説を唱えた。次いで王陽明は実践主義の陽明学を創唱し,『伝習録』によって致良知に依拠する知行合一を説いた。王畿・王艮などから李贄(卓吾)に至る陽明学左派の人々は,ついに名教倫理に反抗する姿勢を示した。これに対して,銭徳洪・鄒守益・羅洪先ら陽明学右派の人々は,陽明学の正統を守ろうとしながら朱子学に近づいた。朱子学の立場から陽明学を批判した羅欽順『困知記』は名高いが,それを受けた顧憲成・高攀竜らの東林学派は経世致用による実学主義を主唱し,明末の対宦官闘争に重大な役割を果たし,黄宗羲・顧炎武・王夫之らに継承された。1582年(万暦10)にマカオに到着したマテオ=リッチなどがもたらした『坤輿万国全図』などのヨーロッパ近代科学の成果は,中国思想界に大打撃を与え,一方で儒学の実学主義と相まって,徐光啓『農政全書』,李時珍『本草綱目』,宗応星『天工開物』などを生み出した。宗教の情勢も復古的傾向をもった。モンゴル族の間に根づいたラマ教は,元の敗退とともにモンゴリアに普及し,14世紀末にツォン=カ=パの改革によって黄教が生まれた。太祖・成祖の仏教に対する統制・保護と社会・経済の発展・上昇によって,大蔵経の印行や寺院建築などの仏教文化の向上には見るべきものがあったが,教理・思想面の発展はほとんどなかった。明末に朱宏・真可・徳清・智旭らが出て諸宗を融合した仏教の唱導と三教一致を主張し,ために居士仏教が盛行したことは注目してよい。道教界でも旧来の正一教の勢力が回復し,道蔵の編集が行われたが教埋・信仰面の展開はなかった。そのなかで,成祖による太和山復興の動きと,功過格などの善書の流行は種々の意味で注目に価する。こうした既成宗教の不振と世俗化を背景として,民間に弥勒仏下生信仰ないしその亜流を基礎としてそれに諸宗教を混融した宗教が蔓延した。これらは白蓮教の名で総括的に呼ばれるが,無為教を初めとして多くのセクトに分立しており,概して救いを現世に求め政権を含めた現体制を否定する動きを示した。しばしば大規模な社会運動を起こし,時に農民反乱と結びついた。この傾向は明末に強く,重なる官憲の弾圧を受けながらも師承関係・血緑関係などを背景に清代に継承された。イエズス会によるキリスト教の中国伝道はリッチによって本格化し,しばしば禁教されながらも,ロンゴバルディ・パントハ・アダム=シャールなどの宣教師によって,明末の短日月の間に徐光啓・李之藻らの高官を初め,宗室のなかにも多くの信者を得た。文学にも擬古主義の風潮が強い。李夢陽・何景明・王世貞・李攀竜などに代表される前七子・後七子の擬古派は,古い形式と文体とを再現するに留まり,明初の詩壇の高青邱とともに,明の文壇に新風を吹き込むには至らなかった。擬古派とこれに批判的な公安派・竟陵派との論争も政争を背景として鋭く対立した。こうしたなかで,挙業のための八股文の発達は,一方で文学・思想の自由な表現を制約したが,他方,散文形式を緻密に完成したことは注目してよい。経済・社会の上昇を背景として,明代には庶民的文芸が盛行した。とくに白話長篇小説は急速に成長し,『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』の四大奇書が完成され,瞿佑『剪燈新話』,馮夢竜『喩世明言』『警世通言』『醒世恒言』などが創作された。さらに絵入り本も流行し,金聖嘆のごとき小説評論家も出現した。戯曲では,江南デルタの繁栄を踏まえて南曲が極盛した。高則誠『琵琶記』,湯顕祖『玉茗堂四夢』は名高く,ほかに徐渭・チンエイ※注2※などが知られている。明代絵画の主流は,15世紀後半を境に北画・南画に二分される。北画は宋・元の系統を引くもので,辺文進・林良父子・周文靖らが名高い。唐寅・仇英らの院派の繁栄を過渡期として,明代後半には元代の四大家に始まる文人画としての南画が隆盛した。南画には呉派を初め多くの流派があり,沈周・文徴明から董其昌に至って完成し,やがて清代の四王ゴウン※注3※における形式主義への道が開かれた。人物画は一般に低調で,明末に西洋画の影響を受けたが新味はなかった。書道では,初期に解大縉・張弼らが元のチョウシコウ※注4※の流れを汲んでいたがむしろ不振であった。中期に祝允明・文徴明が出てようやく盛んとなったが,董其昌が出ると,晋の古書や唐・宋の書風を採り入れて明の書道を一変させた。明代建築の遺構の今日に残るものは多い。都城・宮殿・寺観・陵墓・廟楼などいずれも大規模で華麗であり,紫禁城の午門・太和殿や天壇・定陵など代表的である。工芸では,陶磁器にまず指を折らねばならない。各種の文様を施した染付け・赤絵・辰砂などの名品が,景徳鎮の官窯を中心に産出されている。前代に盛んであった竜泉窯・磁州窯なども青磁・白磁を産出し最も重要な輪出品であった。漆器では,堆朱・堆黒などの雕漆を主流に沈金・螺鈿などに逸品が多く技法はしだいに細緻となった。また,倭漆の出現や七宝器・玉器の発展も見逃せない。織物は実用の綿織物のほか,江南デルタを中心に絢爛・瀟洒な絹織物がつくられた。金襴・緞子・金羅・印金などが前代を踏襲しつつさらに精巧化した。
【対外関係】明は,国初,アジア諸国との間に冊封関係を樹立し,寧波・泉州・広州と中央の会同館における勘合符による朝貢貿易を認め,市舶司を置いてその利益を独占し中国商人には海禁政策を実施した。北辺においては茶馬貿易を行っていた。しかし,貿易統制の強化や周辺民族の中国に対する欲求の変化などから,15世紀半ば以降,北虜・南倭と呼ばれる周辺民族や海外進出の自由化を望む中国人の運動が展開した。しかし16世紀半ば,タタール部へのラマ教の浸透による順和化や海寇への取り締まりの強化から,この外辺の禍患は鎮静化した。明では1567年(隆慶1)に海禁政策を廃して中国人の海外渡航を認めたが,このことは後の華僑形成の基盤となった。地理上の発見と大航海時代の到来によって,ヨーロッパ商人の中国への渡来が始まった。まず,ポルトガル人は1517年(正徳12)に初めて広州に到着し,1554年(嘉靖33)には通商を許されて,10年後にはマカオ居住が認められた。遅れて中国にきたスペイン人は,1570年に建設したマニラを根拠に,絹・陶磁器・工芸品を買い入れて莫大なメキシコ銀を中国にもち込み,他の要因とともに一条鞭法施行の一背景をつくった。オランダは,1604年(万暦32)に中国に渡来したがポルトガル人に妨げられ,台湾を根拠にして鄭成功に追われるまでこの島を支配した。ヨーロッパ商人の中国渡来は,やがてイエズス会士の渡来を招き,宣教師の活躍は中国の思想・文化に一定の貢献をした。
〔参考文献〕三田村泰助『明と清』世界の歴史14,1974,河出書房新社
山根孝夫『明帝国と日本』図説中国の歴史7,1977,講談社
(2/2)
◆明(1/2)を見る◆
![]()