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明 みん
中国の統一王朝(1368〜1662)の一つ。モンゴル族の元を漢北に逐って漢民族支配を復活し,女真の清の興起のうちに李自成・張献忠の反乱によって第17代皇帝桂王が首を吊って死に,滅んだ。国号の明は,夏の別号である朱明に由来するという説,太祖朱元璋が当初属していた宋の小明王韓林児の宗教に因むという説,元初に存在した〈日月並び行われれば,元の憂いとなる〉という「讖(しん)」(予言)によるという説など,定説はない。
【明の成立】朱元璋は1356年(至正16)に集慶を根拠として以後,長江流域の群雄を平定し,1368年1月に金陵(のちの南京)で帝位につき,国号を大明,年号を洪武と称した。明の太祖である。太祖はこの年秋に大都(のちの北京)を隠れて元の順帝を北走させ,1371年(洪武4)には四川を平定し,雲南に残存した元の一族を滅ぼして中国全土の統一を完成した。
【政治的変遷】長江デルタ穀倉地帯に統一王朝として初めて首都を置いた太祖(洪武帝 在位1368〜1397,洪武1〜洪武30)は,北辺防備のために諸子を分封して国家の落塀とし,法制を整え,中央・地方の官制を初め政治・社会・経済の諸制度を制定するなど,明一代の基礎を固めた。太祖の嫡孫恵帝(建文帝 在位1399〜1402,建文1〜建文4)が即位すると,燕王は靖難の変を起こし,4年の内乱の後に成祖(永楽帝
在位1403〜1424,永楽1〜永楽22)として首都を北平に移して北京とした。成祖はこの内乱のうちに勢いを回復したモンゴル族に対して五出三犂と言われる親征を繰り返すなど,東北一帯・貴州・ヴェトナムに兵を進め,鄭和らを派して南海に遠征するなど領域を拡大し,勢威を発揚した。三楊らの補佐を得た仁宗(洪煕帝 在位1425のみ)・宣宗(宣徳帝 在位1426〜1435,宣徳1〜宣徳10)の盛時の後,英宗(正統・天順帝 在位1436〜1349,正統1〜正統14),重祚(1457〜1464,天順1〜天順8)時代になると,宦官王振の独断によって明初以来の政治はしだいに紊乱し,それに乗じて葉宗留・トウ※注1※茂七の乱が起こり,1449年(正統14)には英宗がエセン=ハンの率いるオイラート部の捕虜となる土木の変に遭遇した。英宗は翌年に帰国したが,その間に即位した代宗(景泰帝 在位1450〜1456,景泰1〜景泰7)との間に争いを生じ,1457年(景泰8)に奪門の変で英宗が復位した。このころから明の対外政策は長城の修築・柳城辺牆の設置・九辺鎮の整備などの守勢に転じ,やがてタタール部のアルタン=ハンの進攻を許すこととなった。孝宗(弘治帝 在位1488〜1505,引治1〜引治18)の中興期を挟んだ憲宗(成化帝 在位1465〜1487,成化1〜成化23)・武宗(正徳帝 在位1506〜21,成徳1〜成徳16)の時代は,妖僧継暁・宦官劉瑾などの専権によって諸政が疲弊し,諸税の増徴による社会不安の増大が劉六・劉七の反乱のような農民反乱を惹起させたばかりでなく,安化王・寧王などの宗室の反乱をも招いた。その即位をめぐって大礼の義と呼ばれる激しい政争が展開された世宗(嘉靖帝 在位1521〜1566,正徳16〜嘉靖45)初年の統治は,前代の弊をよく刷新した。しかし,やがて道教に溺れて国庫を消耗し,大学士厳崇父子の専権を許して政治を荒廃させた。世宗時代を特色づける現象は,いわゆる北虜・南倭の外禍である。茶馬貿易の不調によるタタール部の北辺への進攻と,日本の勘合朝貢貿易への厳しい制限などによる倭寇の激化は,ともに世宗末年まで明朝を脅やかした。短命な穆宗(隆慶帝 在位1567〜1572,隆慶2〜隆慶6)を継いだ神宗(万暦帝 在位1573〜1620,万暦1〜万暦47)の初年,張居正は土地丈量・税徭の均衡化などを基礎とした諸政の刷新を行ったが,神宗が親政するとまたも宦官を重用し奢侈にふけった。加えて,万暦の三大征と呼ばれる内外の戦争を初めとする軍事行動は国庫不足を増大させた。新しい税制である一条鞭法の効果も少なく,財源捻出のための鉱税は宦官の介入によって苛酷な誅求と化して,織傭の変などの民変を招いた。神宗末年には女真の興起に対するための遼餉などの加派があり,人民の生活はいっそう逼迫した。しかも政局は,東林党・非東林党の政争に終始して内外の難局に対処し得ず,光宗(泰昌帝 在位1620,泰昌1)時代から熹宗(天啓帝 在位1621〜1627,天啓1〜天啓7)の初年にかけての三案をめぐって空転した。熹宗による宦官魏忠賢の登用はこの混乱にさらに拍車をかけ,四川・貴州の土官土司の乱,山東の白蓮教徒徐鴻儒の乱などが起こった。最後の皇帝毅宗(崇禎帝 1628〜1644,崇禎1〜崇禎17)は頽勢の挽回をはかったが,新たに設置された三餉などの付加税などのために民心の不安はいっそう増大し,1628年(崇禎1)の陝西の飢饉を契機に,各地に大規模な反明農民反乱が発生した。清軍の侵入に主力を投入していた明軍は,李自成の北京攻略を阻止し得ず,1644年(崇禎17)3月,毅宗は自殺して明朝は滅んだ。李自成らの反乱は間もなく清軍の援けを借りた呉三桂らに撃破されたが,続いて清が入関し,華中・華南に擁立された福王・唐王・永明王などの南明の諸王も1661年(永暦15,順治18)までに捕殺されて,明は完全に終焉した。
【諸制度】明の中央・地方の官制は,中央集権的君主独裁体制の整備に特色がある。中央官制では,1380年(洪武13)の胡惟庸の獄を機に,元制を踏襲していた中書省を廃して六部を個別的に独立させ,御史台に代わる都察院を新設し,大都督府を五軍都督府とし,諌官として六科給事中を置き,それぞれを皇帝に直結させた。太祖は天子の顧問として四輔官を置き,さらに殿閣大学士の制を設けたが,成祖の代にそれは内閣制度に発展し,15世紀以後には大学士の地位は向上して六部尚書の上に位し,宰相の実を備えるようになった。その他,通政使司・翰林院・国子監・欽天監などが中央官衙として存在した。地方官制も,国初には元朝以来の行中書省が存在したが,1376年(洪武9),その権限を縮小して承宣布政使司として民・財政を司らせ,監察の提刑按察使司,軍政の都指揮使司に対等の権限をもたせて省政を分担させ,いずれも皇帝に直属させた。中期以後,臨時に置かれた総督・巡撫は,常設の官として省の三司の上に立った。省は,当初直隷のほかに12布政使司であったが,増廃の結果,南北2直隷と13布政使司となって明末に至った。その下に府・州・県が置かれ,県下の郷村には里甲制が布かれて,戸籍の整備・税役の徴収などを課された。中期以後,若干の府を統轄する分守道・分巡道が置かれ,ほかに特設の地方行政機関として,都転運塩使司・塩課提挙司・市舶提挙司・茶場司などがあった。なお,太祖は君主独裁権を補助するために宦官を用いて諜報網を組織したが,文字の禁を課してその政治参与を戒めた。しかし,靖難の変後宦官勢力は急速に伸張し,24衙門(がもん)を中心に章奏に対する批答や伝奉に権力を振るうようになった。また,1420年(永楽18)設置の東廠は,錦衣衛・西廠とともに秘密の諜報・刑獄の機関として宦官の拠り所となり,しばしば官僚勢力を圧倒した。兵制は軍戸を設定して世襲的に兵役を担当する衛所制で,軍屯による自給体制を原則とした。衛所は各省の都指揮使に直属し,さらに中央の五軍都督府に分属したが,中期以後,軍屯地の私有化・それに伴う兵変・兵士の逃亡などから,民壮の徴募や郷兵の編制が行われるに至った。法制は『大明律』『大明令』を基盤に,『大詰』・条例や各官衙ごとの行政法規などによってその不備を補った。行政法規は16世紀以降に『大明会典』に集大成された。税制では,直接税である田賦・徭役のほか,間接の諸税目があり,しかも戸籍や耕作地の区分がそれらに重なって非常に複雑であった。軍・竈(そう)・匠(しょう)の各戸は戸籍そのものが役であったので,いわゆる雑役は免除されたが,州県内に田宅を有するものは州県の賦役の対象となったという。一般民戸に対する揺役は正役と雑役とがある。正役は,ふつう里甲役と呼ばれ,上供物料・公費の拠出を含めた里長・甲首の役に服することのほか,老人・糧長・塘長などに当たることであった。これら以外のすべての不定期な役が雑役で,時とともに繁雑となり人々の負担を増した。15世紀半ばにそれを改める均徭法が行われ,さらに一条鞭法に発展した。田賦は両税法によって徴収されたが,官田と民田との差,田・地・山・塘の差,等則の差によってその税率は異なり,さらに折色の許される場合もあった。税糧の折銀は,1433年(宣徳8)に蘇松地方で金花銀と呼ばれて行われてから一般化した。漕運は農民が税糧を国都にまで運搬する民運が原則であったが,支運・兌運・改兌の各法が行われ,民運の低下とともに耗米が事実上の付加税となった。これらの税役は,戸籍であり課税台帳である冊簿に基づいて課され,その冊薄は軍戸の場合の軍冊,竈戸の竈冊もしくは塩冊,民戸の黄冊もしくは賦役黄冊であって,匠戸にもそれがあったではあろうが不明である。以上のほかに,商人に対する過税・住税・鈔関税・工関税・門攤税が商税として課され,契税・酒醋税・漁課・砿課・茶課などが雑税としてあった。明代では,とくに辺境防備のための遼餉などのような臨時税が恒常化することも稀ではなかった。明代の田土は,官田と民田とに二大別される。民田は農民の保有地で,国初,華北には自作農が多く,華中・華南では大土地所有が一般的で地主佃戸関係によって耕作されたが,中期以後は華北にも大土地所有が展開し,佃戸制とともに奴婢・傭工による富農的経営も見られた。福建など一部の地域では,明末に近づくと一田両主制が行われた。官田には古額官田・還官田・没官田・断入官田・学田・皇荘田・荘田・牧馬草場・各種の屯田などのほか,国初には禄田・職田などその種類は極めて多かった。官田は江南に多くその税糧はかなり重かった。官田の承佃戸には,無田の農民のほか地主や自作農が承佃してさらに私的佃戸にまた貸しする場合もあった。なお,土地台帳として魚鱗図冊が作成された。幣制では,太祖は銭を主要通貨として洪武通宝を鋳造したが,ほどなく大明宝鈔を印造して紙幣専用をはかり禄米を鈔で支給した。しかし,民間における銀の貨幣的使用が盛んとなり,中期以後は京官の俸鈔の換銀支給,税糧などの銀納も開始されて,秤量貨幣としての銀が主要通貨となっていった。
(1/2:続く)
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