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●ミラボー

ヨーロッパ フランス共和国 AD1749 フランス王国

 1749〜1791 フランス革命の政治家。17世紀中ごろ,マルセイユの商家から受爵した貴族の家系に属し,父は侯爵で重農学者。ロワレ県ビニョンの城に生まれ父の意志により18歳で軍務につくが3年後に除隊。マリニャヌ侯爵の娘と結婚するがまもなく離婚。醜聞と負債のため,やはり離婚歴をもつ父の手でイフ島などに閉じ込められた。ポルタリエ近くの要塞に幽囚の間,モニエ侯爵夫人ソフィーと知り合い,スイス・アムステルダムへ逃避行。このため1777年から1780年までヴァンセンヌ城に入れられる。同年末,父の許しがおり社会復帰。獄中で書いた『封印逮捕状と国家の牢獄』が2年後に出版された。再婚をめぐってエクス高等法院と対立。カロンヌの政策を批判。英・蘭・普の歴訪からイギリスの政体を賞讃し,『フレデリック大王下のプロイセン君主政』を著した。著述活動・当局との軋轢・父との葛藤によりその名は知れわたり,また革命においてその八方破れのエネルギーが本領を発揮することになる。1789年3〜4月,プロヴァンス州の貴族身分から全国三部会に選ばれようとするが,貴族の反対に遭いエクスとマルセイユの第三身分会から上位当選した。これに先立ちマルセイユ市政革命をも指導。6月23日,国民議会に対して国王が,6日前の決定の無効を通告した際,その伝令のブレゼ式部長官に対し“われわれは国民の力によってここにあり,銃剣の力によらなければそれを奪うことはできない”と咆哮したことは有名。以後,国王と議会両権力の妥協をはかり,一院制だが国王の無条件拒否権を求め,またイギリスにならって大臣を議員のうちから任命する議員内閣制を提案。財政改善のため僧侶財産の没収を採択させた。1790年5月,宣戦・講和の権利をめぐりバルナーヴと論戦。国王に軍隊指揮権を認めさせたのは彼の力による。宮廷との秘密取引きを指摘する声もあり,確かに国王が彼の負債を払ってやり年金を与えていたことは事実。ただし,王妃がミラボーの立憲君主政を受け入れず調停は不首尾に終わった。1791年4月2日過労のため死去。議会との接点を失った国王一家のヴァレンヌ逃亡の引き金になった。遺骸はパンテオンに葬られるが国民公会になって撤去された。

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