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●苗字 みょうじ

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 平安時代後期におこり,現在にまで受け継がれている個人の名称の上につけて家系を示すのに用いる呼称。

【苗字の起源】苗字の正確な起源はわからない。古代につくられた氏(うじ)の呼称と異なるさまざまな通称が用いられていくうちに,それがいつの間にか父系の子孫に受け継がれるようになっていって,やがて苗字になったからである。平安時代になると,多くの氏の名がしだいに淘汰されて,おおむね源・平・藤原・橘にまとめられるようになっていく動きが見られるようになった。古い伝統をもつ氏の成員が,自己の氏の名称を捨てて勝手に藤原などと名のり,いかにも自分は藤原鎌足の子孫であるかのようにふるまって,いつわりの系図をつくるようになったのである。そのようになると,藤原などの氏の名称の意味が失われてしまった。そこで藤原氏のなかのとくに有力な家系の者は,単に藤原と名のるだけではあきたらず,自分が藤原氏の主流であることを示すために,九条(くじょう)・小野宮(おののみや)などの通称を主に用いるようになった。その意味から言って,藤原実頼の子孫が小野宮と称し,藤原師輔の子孫が九条と名のった10世紀後半に,苗字の起源があると評価できる。やがて,藤原氏の主流は,一条(いちじょう)・二条(にじょう)・九条(くじょう)・近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)の五摂家と呼ばれる五つの家に分かれる。そしてそれと同じころ,公卿の氏も苗字に相当する名称を名のる家に分かれていった。たとえば,菅原氏は,高辻(たかつじ)・唐橋(からはし)・五条(ごじょう)などに細分化されていった。

【中世の武士の苗字】平安中期ごろから,各地で名(みょう)が生じた。名とは,国衙領や荘園の根幹をなす土地の最小の単位であり,それを所有する武士の名を冠していた。名に属す田地を名田という。そして,名田の支配者を名主という。名主は,家族や作人や下人を従えて土地を経営し名主の地位は世襲された。そのことによって,名の名称を苗字として世襲する武士が多く現れた。しかし,平安時代末期までは,新しい支配地を得たときに苗字を変えたり,兄弟が別々の領地をもつようになると兄と弟が異なる苗字を名のることが一般的であった。そして,鎌倉幕府が成立して武士が幕府の御家人になると,武士がしばしば苗字を変えることで幕府の支配に不都合が生じるようになった。そのために,御家人の間に苗字の固定が起こり,武士の領地が変わったり武士が移住したりしても苗字は変わらなくなった。それゆえ,島津・毛利・武田といった古い伝統をもつ武家の苗字の起源はこの時期にあると考えられている。そして,鎌倉幕府御家人以外の武士も,それから間もなく長い期間にわたって世襲する苗字を名のるようになった。しかし戦国時代までは,武士の苗字は固定したものではなく,地位が上昇したときに苗字を改めた例(北条早雲・羽柴秀吉ななど)や,武芸者が勝手な苗字を名のる例(宮本武蔵など)も多かった。

【江戸幕府と苗字】江戸時代になると,武士だけが苗字を用いる方式が確立された。ただし,下級の武士と有力な農民との区別はつけにくく,牢人や郷士もいたため,武士と農民の身分を区別することは容易ではなかったが,幕府は強硬に士農工商の身分を定めた。ただし,江戸時代には,農工商のなかで,公職を務めたり,献金などの功労のあった者には苗字帯刀を許すことになっていた。もっとも苗字を許されたときは,苗字は世襲されたが帯刀は一代限りとされることが多かった。そして,苗字帯刀御免の方式によって,庄屋・名主などを務めた有力農民の多くが苗字をもつようになった。しかし,室町時代以前の苗字を伝えていた農民は,幕府の政策によって公的な場で苗字を用いなくなっても,私的なところでは苗字を名のったと言われる。そのため,明治維新後に四民平等となり平民が苗字を用いるようになったときに,古い伝統をもつ苗字を戸籍に登録した農民が多かったとされている。

〔参考文献〕阿部武彦『氏姓』1966,至文堂