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●明恵 みょうえ

アジア 日本 AD1173 平安時代

 1173〜1232(承安3〜貞永1)明恵は房号,明恵房高弁と言うが,明恵あるいは明恵上人と呼ばれることが多い。鎌倉時代の華厳宗の僧。紀伊国の人。父は平重国,母は湯浅氏。幼少にして父母を失い,叔父に当たる山城高雄神護寺の上覚房行慈の弟子となり密教や華厳教学を学んだ。のち紀伊国白上峯に庵室を構えて住し修行・修学に努め,3年ほどして高雄に帰りその奥の栂尾に閑居したが,高雄に騒動が起こったので再び紀伊に移住,約9年間を母方の湯浅一族の各地の館で過ごしたという。この間,明恵は二度も天竺(インド)に渡ろうとしたが春日大明神の神託により中止した。天竺に渡ろうとしたのは釈尊を追慕しその遺蹟を巡礼するためであった。1206年(元久3)後鳥羽院は華厳宗興隆のため明恵に栂尾の別所を与え,翌年東大寺の華厳教学の中心道場である尊勝院の学頭として華厳宗を興隆すべきことを命じた。こうして栂尾に高山寺が建てられ,明恵の周辺に同法も集まった。1212年(建暦2),この年没した源空の『選択本願念仏集』を読んだ明恵は,『摧邪輪』を,翌年にも『摧邪輪荘厳記』を著し,源空の専修念仏を批判した。この専修念仏への対抗から,中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」,その左右に菩提心の四つの異名を書き入れた三宝礼の名号本尊をつくった。さらに在家の人びとは「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え,三宝に供養すればよいとし実践の簡易化をはかった。1221年(承文3)承久の乱にかかわってのことか,賀茂の別所に移ったが翌々年栂尾に帰った。承久の乱のころの明恵の行動は未詳だが,明恵が後鳥羽院側の関東調伏の依頼に応じたとする見解もある。また,乱後院側の敗残兵が栂尾に逃げ込んだのを明恵が隠まい,そのため六波羅に連行され,このとき初めて明恵にあった北条泰時が明恵に帰依するようになったと言う。承久の乱で刑死した中御門宗行の未亡人が高雄の入口平岡に善妙寺を開き,同じような女性が集まった。明恵は同寺の女性たちの指導にも当たり,こうした女性たちの救済のため明恵が描かせたのが,『華厳縁起絵巻』であるとする説がある。善妙の寺号は華厳宗の守護神善妙神によっている。一方,明恵は光明真言を重視して,光明真言で土沙を加持し,それを亡者の菩提を弔い,病そのほかの災いを除くために用いることを多く行うようになり,現世では光明真言を持念し後生には土沙の利益を信ずるように述べている。これには,新羅華厳宗の元暁の影響があったと考えられている。この元暁や同じく新羅華厳宗義湘,唐代在俗の華厳経研究者季通元,中国華厳宗第五祖の宗密の影響を受けたのが明恵であり,明恵没後に出る東大寺凝然華厳教学が中国華厳宗第三祖の法蔵と第四祖澄観の教学を正統視したことと対比的な明恵の教学上の特色であり,さらに明恵の特色の華厳と密教の一致の立場に達したところにあるとされている。そこに明恵の実践重視の立場があった。このことは,高山寺恒例の行事となった説戒において,僧は行を本とすべきことを自らも心がけ弟子にも説いたことや,行法と学問との関係では,行法の暇に学問をすべきであると説いたことにも表れている。一方,明恵はすこぶる夢を見た人であった。古代・中世の人にとり夢・夢想・夢告は重要な意味をもっていた。明恵に『夢記』があり,明恵にとっては,夢が己の生活と深くかかわりきわめて宗教的な意味があったから,『夢記』を書き記したとされている。1233年,明恵は60歳で没した。その生涯のなかで後鳥羽院とかかわりをもち,後深草院・修明門院,九条兼実・道家・藤原長房・西園寺公経・富小路盛兼・北条泰時そのほかの帰依を受けた。持戒持律堅固な生活のなかで著述に従事,主著は『華厳修禅観照入解脱義』で,ほかに『華厳仏光三昧観秘宝蔵』『仏光観略次第』『三時三宝礼釈』『光明真言土沙勧信記』などが,門弟編の伝記に『高山寺明恵上人行状』『明恵上人伝記』があり,『却廃亡記』『栂尾説戒日記』などは明恵の言行録。

〔参考文献〕田中久夫『明恵』1961,吉川弘文館