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●ミュンヘン会談 ミュンヘンかいだん

ヨーロッパ フランス共和国 AD1930 フランス共和国第三共和政

 1938年9月29〜30日にドイツのミュンヘンで英仏独伊四カ国の首脳が開いた会談。ここでチェコスロヴァキアのズデーテン地方をドイツに割譲するミュンヘン協定が調印された。第二次世界大戦前史において英仏のナチス=ドイツに対する宥和政策の頂点をなす事件と見なされている。

ズデーテン危機】かねてから東方へ向かっての遠大な征服計画を抱いていたヒトラーは,1938年以降この目標に向かって対外政策を積極化し,1938年3月まずオーストリアに軍隊を進駐させて独墺合邦(事実上のオーストリアの併合)を果たした。そして,次の目標をチェコスロヴァキアにおき,その当面の手掛かりをズデーテン=ドイツ人の問題に求めた。ズデーテン地方はチェコスロヴァキアの有数の工業地帯であり,この国の対独防衛戦略上最も重要な地域であったが,この地域の住民の大多数を占めていたのが約300万のドイツ系住民(いわゆるズデーテン=ドイツ人)であった。彼らはかねてからチェコスロヴァキア政府によつて政治的・経済的に差別されているという不満を抱いていたが,この感情を背景に,1938年春以降ヘンラインの率いるズデーテン=ドイツ党がチェコスロヴァキア政府に対する自治の要求を急速に強め,ついにはズデーテン地方のドイツ編入をも主張するに至った。この運動は明らかにヒトラーによって示唆されたものであり,事実,彼は一方でドイツ国防軍にチェコスロヴァキア侵略のための作戦計画をつくらせ,1938年5月末にはその実施の期日を同年10月1日以降と定めた。そして,9月12日のナチス党大会では公然とチェコスロヴァキアへの干渉の意図を示した。こうして1938年9月にはドイツとチェコスロヴァキアとの関係は一触即発の緊張に達し,両国間の衝突を導火線として英仏を巻き込む大戦の勃発が懸念される事態となった。因みに,当時フランスとチェコスロヴァキアとの間には相互援助条約が結ばれていた。

チェンバレンの平和工作】だが,状況の鍵を握る立場にあった当時のイギリス政府にはドイツとの軍事的対決の準備はなく,首相ネヴィル=チェンバレンは9月15日以降平和平作に乗り出し,ヒトラーを訪問してズデーテン地方のドイツ編入をチェコスロヴァキア政府に働きかけることを約束した。だが,9月22日チェンバレンがチェコスロヴァキア政府の同意を取りつけた上でヒトラーを再訪問すると,ヒトラーは新たな要求――[1]10月1日までにズデーテン地方をドイツに明け渡すこと,[2]ポーランドおよびハンガリーのチェコスロヴァキアに対する領土要求も満たすこと――をもち出し,これによってイギリス首相の和平工作を水泡に帰せしめた。ここに至ってチェコスロヴァキア政府も,また,それを支持する英仏両政府もドイツとの対決をやむなしとすることとなり,ヨーロッパは再び戦争の瀬戸際に立たされた。

ミュンヘン協定の調印】だが,9月28日チェンバレンヒトラーズデーテン問題に関する国際会議の開催を呼びかけ,同時にイタリアのムッソリーニに仲介を依頼したところ,ヒトラーもこれに応じ,9月29日〜30日のミュンヘンにおける四カ国首脳会談(英首相チェンバレン・仏首相ダラディエ・独総統ヒトラー・伊統領ムッソリーニが出席)となった。この会談では10月1日から同月10日の間にドイツ軍がズデーテン地方の占領を完了するという趣旨の協定が成立し,この結論がチェコスロヴァキア政府に押しつけられた。また,ポーランドおよびハンガリーの領土要求も事実上認められた。このミュンヘン会談によつて当面の大戦の危機は回避されたが,翌1939年3月にはヒトラーはチェコスロヴァキアの解体を敢行することとなり,結果的にはこの会談は独裁者の脅しに対する誤った譲歩の代表例として長く非難されることとなった。

〔参考文献〕A. J. P. テイラー,吉田輝夫訳『第二次世界大戦の起源』1977,中央公論社

斉藤孝『第二次世界大戦前史研究』1965,東京大学出版会