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●宮古諸島 みやこしょとう

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 沖縄島の南西およそ300km,石垣島の東およそ130kmに位置し,宮古島・伊良部(いらぶ)島・下地(しもじ)島・来間(くりま)島・池間(いけま)島・大神(おおがみ)島・多良間(たらま)島・水納(みんな)島の八島から成っている。総面積163平方km,月平均気温23.1度,年間降水量2,000mm以上の海洋性の亜熱帯気候地帯である。宮古島の最高位置は標高115mを示し平均に扁平な地形をしている。地質はシルト質粘土層と琉球石灰岩層から成り,宮古島と大神島の基層からはゾウ・クジラ・サメなどの化石が発見されている。また,宮古島・伊良部島・来間島からは,石灰岩層中の洞穴内よりゾウ・シカ・イノシシ・ヤマネコ・ネズミ類・鳥類・両生類爬虫類など多くの化石が発見されている。平良(ひらら)市・城辺(くすくべ)町・下地町・上野村・伊良部村・多良間村から宮古郡が構成されている。平良五箇(ごか)と呼ばれる市の中心は,古くより中心地として栄え宮古諸島の心臓部を形成している。平良五箇を除く地域は純農村であり,全耕作面積の内約70%でサトウキビ・甘藷・葉タバコ・大豆などを生産しており,とくにサトウキビは沖縄全域における生産高の約55%を占めている。池間島におけるカツオ漁は盛んである。宮古諸島は沖縄本島や八重山地域とは異なる言語・民俗的特徴を有している。宮古島が歴史書に現れるのは,1390年(洪武4・琉球国王尚巴志8)であり,このとき与那覇勢頭豊見親(よなはせどとみやおや)が中山王府に朝貢したことに始まる。そののち仲宗根豊見親(なかそねとみやおや)玄雅が宮古頭職となり,八重山地域に起きたオヤケ=アカハチの乱の折,王府の討伐軍に加わりこれを鎮めたとある。1609年(慶長14)以後,島津氏の琉球支配のもとで,王府は1629年(崇禎2)には宮古島に蔵元を置き,従来の頭職を直接支配するべく在番役人を派遣した。そして,平良・下地・砂川(うるかわ)の三間切を定めた。この蔵元は1879年(明治12)の廃藩置県時まで存続する。在番は王府の所帯方奉行に属し,勘定座・小与座・馬方・杣山方・農務方・船手座・御用布座・学校所・系図座・所遺座・仕上世座・問合座・与人・首里大屋子・総横目・検見方・蔵筆者などを管轄した。各村および島々には首里大屋・与人・目差などの役人が派遣された。廃藩置県の翌年1880年(明治13)在番制度を廃止し宮古役所を設置,1896年(明治29)には宮古島庁と改称された。このとき「沖縄県区制」「沖縄県郡編成法」により宮古郡が設定された。1908年(明治41)には「沖縄県及島嶼町村制」が施行されて,従来の間切などの呼び名は町村および字に改称され,宮古郡は平良・下地・城辺・伊良部の4村に行政区画された。1913年(大正2)には多良間が平良村より分村し5村となった。その後新たに町村制が敷かれ,1924年(大正13)には平良村が町となり,さらに1947年(昭和22)には市となった。一方,宮古島庁は1926年(大正15)7月には宮古支庁となった。1950年(昭和25)には米国軍政府の意向をうけて宮古群島政府が設置され,直ちに群島知事と群島議員の選挙が実施された。しかし実際上の議決権はなく諮問機関にすぎなかった。これは1952年(昭和27)4月の琉球政府の発足とともに廃止された。