●屯倉 みやけ
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屯倉は「ミヤケ」と読まれ,もともとは「御宅」の意で朝廷の建造物をさすものであるが,それを含む耕作地を広く称する名称であった。屯倉は朝廷領として設定されたもので,初見は,「垂仁紀」の〈屯倉ヲ来目邑ニ興ツ。屯倉,此ヲバ弥夜気(みやけ)トイフ〉である。〈来目邑〉は大和国高市郡久米寺または久米御県神社付近とされるが,この地がかつての“県”(あがた)であったらしいとすれば,屯倉のなかでも屯田(みた)に類するものかもしれない。屯田は,〈凡ソ倭ノ屯田ハ,毎ニ御宇ス帝皇ノ屯田ナリ。其レ帝皇ノ子ト雖モ,御宇スニ非ズバ,掌ルコトヲ得ジ〉(「仁徳即位前紀」)とされ,天皇の供御料田であった。これの伝統をひくものが,『田令』にいう官田(みた)で,〈凡ソ畿内ニ官田ヲ置ク。大和,摂津各世町河内・山背各世町〉とされるものであった。大化前代においても,屯田司という官が置かれてこれを管理していた。これに対し朝廷領の屯倉は,その初期にあっては,畿内とくに河内や摂津地方の大規模な水田開発事業の結果設けられたものであったらしい。「仁徳紀」十三年条に〈初メテ,茨田屯倉ヲ置ク〉とあるが,これは枚方市から寝屋川市に至る淀川の治水のために設けられた茨田堤造営に伴うものである。「仁徳記」に,〈秦人ヲ役シテ茨田堤及ビ茨田三宅ヲ作ル〉とあるのはそれである。また新しく開拓された河内平野には依網(よさみ)屯倉(「履中紀」)を初め新家・志紀・大戸・桜井・竹村・子代・難波などの屯倉が設けられていった。これら河内平野の開発には渡来人の先進的技術が盛んに投入されたことは言うまでもない。また郡ごとに钁丁(くわよろぼ)を集中的に動員しこれに当たらせている。これによって農業生産力は飛躍的に高まり,この経済力や軍事力をもって大和政権は全国征覇を積極的に推し進めていく。6世紀代に入ると地方豪族も,服属の証として屯倉を朝廷に献じていくことが多くなった。とくに贖罪として屯倉が献ぜられることも見られた。「継体紀」には,〈筑紫君葛子,父ニ坐リテ誅セラルコトヲ恐レテ,糟屋屯倉ヲ献リテ,死罪贖ワンコトヲ求ム〉とあるのは,磐井の乱の贖罪である。「安閑紀」に,伊甚(いじみ)国造が皇后の宮内に闌入した罪を贖うために伊甚屯倉を献じたとあるのは,その例である。大和政権が地方豪族から屯倉を献上させる場合,交通上・軍事上にも拠点となるような土地を選んだらしい。現在の博多付近におかれた那官家(なのみやけ)は那ノ大津を控え,大陸・交通の要衝地でもあった。「宣化紀」に〈夫レ筑紫国ハ,遐ク邇ク朝デ届ル所,去来ノ関門ニスル所ナリ〉と述べられ,河内国の茨田屯倉・尾張国の屯倉・伊勢の新家屯倉・伊賀国の屯倉などの穀を那ノ官家に集めしめている。吉備の児島屯倉も瀬戸内海のほぼ中央に位置する港をもつ屯倉として重視されている。この理由として,屯倉の収納物を京に運ぶ交通上の条件が挙げられるが,やはりその地方の豪族の勢力をけん制する目的も大きかったことは否めない。とくに当時の最大豪族と見なされていた毛野氏(けぬし)・吉備氏・筑紫氏などの領域下に集中的に屯倉が置かれていることは注目されてよい。「安閑紀」に列挙される屯倉のうち,穂波・鎌・桑原・肝等・大抜・我鹿・春日部などの屯倉はすべて北九州の筑紫君・火君の領域である。後月・多祢・来履・葉稚・河音・婀娜・胆殖・胆年部などは吉備氏の地領である。緑野(みどの)屯倉は横渟(よこぬ)屯倉とともに毛野氏の領域下にあった地域である。やがて蘇我氏が中央政局で実権を握ると,屯倉の経営にも積極的に乗り出し,王辰爾の甥,膽津を派遣して,白猪の田部の戸籍を検定せしめている。膽津はその功で白猪史(しらいのふひと)を賜姓され,田令(たつかい)に任ぜられ,葛城山田直瑞子(かつらぎやまだのあたいみずこ)の副とされた。これより先,葛城山田直瑞子は蘇我大臣稲目に命ぜられて,吉備・児島屯倉の田令に任ぜられた。ここに律令制的な班田収授法の先駆的な形態が見られ,この面から言えば大化の改新は屯倉制の全国拡大をねらったものと言えよう。一方,これに対し田荘は豪族の私有地である。「崇峻紀」によれば,蘇我氏に滅ぼされた物部大連守屋は広大な田荘を所有したが没収され,四天王寺に19万6,890代が施入され,守屋を射殺した功で迹見首赤梼(とみのおぶといちひ)は1万頃(しろ)を授けられたとある。だが大化2年の詔で〈昔在ノ天皇ラノ立テタマエル子代ノ民,処々ノ屯倉及ビ別ニハ臣,連,伴造,国造,村首,所有ノ民,処々ノ田荘ヲ罷メヨ〉と命令が出され,公民制がとられることになった。大化以後は田荘は「ナリドコロ」と読まれ,別業・別荘の意に用いられている。「持統紀」に〈飛鳥皇女ノ田荘ニ幸ス〉とあるのはそれである。継体天皇の父がいたという〈近江国高島郡ノ三尾ノ別業〉(「継体紀」)もそれであろう。また寺院領として田荘が残されたことは,「孝徳紀」白雉元年条に〈白雀,一寺ノ田荘ニ見ユ〉とあることからも窺えよう。〔参考文献〕原島礼二編『大和王権』論集日本歴史1 1973,有精堂
弥永貞三編『古代』1,日本経済史大系 1965,東京大学出版会