●源頼朝 みなもとのよりとも
アジア 日本 AD1147 平安時代
1147〜1199(久安3〜正治1)鎌倉幕府初代の将軍。源義朝の三男。母は熱田大宮司藤原季範の娘。1159年(平治1)従五位下右兵衛権佐となるが,同年の平治の乱に敗れて逃れる途中捕えられる。平清盛の義母池禅尼の力で一命を助けられて伊豆に配流となり,伊東祐親・北条時政らの監視のもとに20年間を送った。この間に時政の娘政子と結婚し以後時政の保護を受けるようになる。1180年(治承4)以仁王の命を受けて平氏討伐の兵を挙げ,伊豆の目代山木兼隆を倒したが石橋山で敗北。しかし,海を渡って安房に逃れ,平広常・千葉常胤らの力を借りて房総・武蔵・相模を従え,畠山重忠・江戸重長・河越忠頼の協力を得て鎌倉を本拠地とした。次いで,頼朝追討のため下ってきた平維盛の軍を富士川に迎え撃って敗走させた。引き続き軍を返して常陸の佐竹氏を討ち,関東の守りを固めるとともに武士統制のための侍所(さむらいどころ)を設けて和田義盛をその別当に任じた。その後,しだいに東海・東山諸国を勢力下に入れ,1183年(寿永2)10月には後白河法皇から東国の支配を正式に認める宣旨を獲得した。次いで,弟範頼・義経を将とする大軍を送って木曽義仲を滅ぼし(1184),さらに引き続いて平氏を,一ノ谷・屋島の戦いを経て1185年(文治1)壇ノ補に全滅させた。このころ,公文所(後の政所)を設け,大江広元を別当に任じ,また問注所を置いて三善康信を執事とし政権の基礎を固めた。しかし,この間に,弟の義経の専断,義経と後白河法皇との接近,ことに,義経が頼朝の了承を得ずに左衛門少尉・検非違使に任官したことなどから,頼朝と義経の間は急速に悪化した。頼朝は,平氏討滅の殊功ある義経を鎌倉に入れず,逆に土佐坊昌俊に義経暗殺を命じた。義経は叔父行家と結んで法皇に強請して頼朝追討の宣旨を得たが,武士の支持を失って京都を追われた。1185年(文治1)11月頼朝は義経ら討伐の大軍を送るとともに,守護・地頭設置の勅許を得た。さらにこのころ義経を支持した公卿の解官を要求するとともに,藤原兼実を摂政とし記録所の再興を奏請している。こうした一連の措置は,義経追放を契機として朝廷の反対勢力を一掃し,守護・地頭の設置によって諸国に御家人を配置し,それにより頼朝の全国支配を確立しようとする大胆かつ抜本的な方策であった。その後義経の奥州下向を探知し,義経をかくまった藤原氏を脅して義経を殺させ,さらに自ら大軍を率いて藤原氏を攻め滅ぼした(1189)。こうしてようやく軍事的安定が得られると,1190年(建久1)京都に入り,後白河法皇に謁し権大納言・右近衛大将に任官した。その後,1192年(建久3),法皇の死後,待望の征夷大将軍に任ぜられた。ここにおいて頼朝の政権は名実ともに鎌倉幕府として完成され,以後700年近く続く武家政治の発端となった。晩年の頼朝には特筆すべきことはなく,目立ったこととしては,1195年(建久6)に東大寺再建供養に臨席するために妻子を伴って再度上洛したことくらいである。しかし翌1996年,京都に政変がおこり,頼朝派の藤原兼実一派は駆逐されて頼朝の朝廷対策は崩壊してしまった。これに対し頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇の中宮として入内させ,それによって公武間の宥和をはかろうとしたが,大姫の死により実現に至らなかった。1199年(正治1)1月13日,前年暮の落馬がもとになって死去した。頼朝は武士の統制や朝廷との交渉に卓越した政治的能力を発揮して栄誉ある武家政治の創始者となった。しかし,彼が大江広元ら京都の下級貴族を起用して強めていった独裁的で厳格な統制策は,頼朝の本来の支持勢力である東国武士に不満を抱かせる結果を招いた。また弟の義経・範頼・甲斐源氏の安田義定らを疑って殺害したことも源家を孤立させることとなった。頼朝が死んだ後,政子との間の子頼家・実頼が続いて将軍の職についたが,ともに内部の権力争いの犠牲となり,源家は頼朝の死後わずか20年で滅びた。
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