●源義経 みなもとのよしつね
アジア 日本 AD1159 平安時代
1159〜1189(平治1〜文治5)平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。義朝の子。母は九条院の雑仕常盤(ときわ),頼朝の異母弟。幼名牛若丸,九郎判官と称した。平治の乱で平清盛の軍に敗れ,父義朝は東国へ敗走途中で長田忠致に暗殺され彼は母とともに捕えられたが,許されて京都郊外の鞍馬寺に送られた。後にそこを逃れ陸奥の藤原秀衡の許に身をよせそこで成長した。1180年(治承8)兄頼朝の挙兵を聞いてこれにはせ参じて駿河の黄瀬河に陣をはっていた頼朝と対面。頼朝の命を受け,1183年(寿永2)源氏の総帥として西上,翌年1月源(木曽)義仲を滅ぼして京に入る。翌月摂津の一ノ谷で平氏を急襲,敦盛・知章・盛俊らを殺し宗盛ら平氏の主力を四国へ敗走させた。この戦いの後,鎌倉に戻らず京都とその周辺の警備に当たっていた。このころから後白河法皇の信任を得るようになる一方で,兄頼朝との間に不和が生じ始める。それが決定的となったのは,同年9月頼朝の推挙を経ずに検非違使・左衛門少尉に任じられたことで頼朝を激怒させた事件であった。1185年(文治1)再び平氏追討の総帥となって,讃岐の屋島で平氏を破り長門の壇ノ浦で平氏一族を全滅させた。これで源平合戦は幕を閉じるのであるが,彼は実践部隊の指揮官として大いに戦功をたて合戦の花形となった。この間種々頼朝の不興を買い,捕虜の平宗盛らを従えて凱旋して鎌倉に下ったとき鎌倉に入ることを許されず,むなしく帰京せざるを得なかった。頼朝方の土佐坊昌俊の夜襲(堀河夜襲)を受け義経は硬化し,頼朝を討つことを決意する。かねてから頼朝と不和だった叔父行家と結び後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得る。これを知って頼朝はただちに出陣,義経側の畿内の武士が次々と離反していく情勢を見て京都を離れ,摂津から海路九州に逃れようと出帆する。頼朝はこれを利用して法皇から義経・行家追捕の院宣を出させ,守護・地頭の設置に勅許が与えられた。義経は海難に遭って和泉に漂着,吉野山中に逃れ頼朝の追及を逃れて畿内を転々とする間,愛妻の静と離別,彼女は捕われて鎌倉に送られた。最後は奥州に下り少年時代を過した藤原秀衡のもとに身を寄せたが,秀衡の死後,頼朝の威嚇に屈した泰衡の襲撃を受け,1187年(文治3)衣川の館で自殺した。義経の死後,さまざまな義経伝説や判官物と言われる義経文学が生まれた。義経伝説の代表的なものは,衣川の館で自殺したのではなく,奥州より逃れて津軽半島から蝦夷地に渡り後に蒙古帝国の祖チンギス=ハンになったという説である。このような史実に根拠のない伝説が生まれたのは彼の悲劇的な生涯に人々が同情と賞賛を送ったからである。平家との戦さでのはなばなしい戦功とそれとは裏腹の頼朝との対立の末の悲劇的な死,そして,平治の乱後における母子離別を引きかえにした彼の助命や静御前との悲恋など,その波乱万丈の人生は悲劇のヒーローとして日本民族の心情に強く働きかけ支持を獲得した。そこから彼を英雄視する伝説と文学が多く生まれた。『平家物語』『源平盛衰記』は,そのようなもののなかで最も初期のものであろう。14〜15世紀になると判官物=義経英雄文学が本格的に現れ始めるのだが,その始祖となったのは『義経記(ぎけいき)』である。以下列記する。『烏帽子折(えぼしおり)』『腰越』『堀河夜討』(以上幸若舞曲),『八島』『船弁慶』『安宅(あたか)』『天狗の内裏』『秀衡入』『浄瑠璃物語』(以上御伽草子),江戸時代に入ると近松門左衛門作『門出八島』『源氏烏帽子折』,竹田出雲作『義経千本桜』,並木宗輔作『一谷嫩(いちのたにふたば)軍記』,並木五瓶『勧進(かんじん)帳』,曲亭馬琴作『俊寛僧都島物語』,等々。判官物が浄瑠璃や歌舞伎となって演じられ,映画やテレビになって現れ続けている事実は,義経が古今東西随一の英雄であることを示している。
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