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●南満州鉄道株式会社 みなみまんしゅうてつどうかぶしきかいしゃ

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 日露戦争の結果,ポーツマス条約によって,日本がロシアより譲り受けた鉄道および附属事業などの経営を目的に設立された国策会社。俗に満鉄と呼ばれた。日本がロシアより譲渡された鉄道のもととなったものは,三国干渉の結果,1896年の露清条約によってロシアが建設した東清鉄道である。ポーツマス条約によって長春(新京)以南より大連,旅順にいたる区間が日本に譲渡された。これが南満州鉄道といわれたものである。

【管理・運営】南満州鉄道の運営については,日本政府は国策的会社をもって行うことを企図し,1906年(明治39)6月,勅令をもって南満州鉄道株式会社設立の件を公布した。そして同年11月,初代総裁後藤新平の任命をみて,同社は正式に発足するにいたった。発足当初の同社の資本は2億円(内1億円は政府の現物出資),従業員数約6,400というものであった。その経営・監督には日本政府が多大の干渉を行ったが,その推移をみると,1907年(明治40)発足時には逓信大臣の管理下に置かれ,逓信大臣監督の下に関東都督が監督権を行使することとされたが,翌1908年(明治41)には内閣総理大臣の管理に移されて,鉄道院(のちに拓殖局)の直接所管する所となった。1920年(大正9)からは鉄道・航路などについての業務上の監督は鉄道大臣の管轄とされたが,日本の大陸政策の激化から1929年(昭和4),拓務省の新設をみると,拓務大臣の管理下に移された。1932年(大同1)の満州国の成立は南満州鉄道株式会社のあり方にも大きな影響を与えた。すなわち,1934年(昭和9)対満事務局官制の公布により,同社は内閣総理大臣の主管のもとに,満州国駐チュウサツ※注1※全権大使の監督する所とされた。そしてその組織機構として,重役は総裁・副総裁・理事・監事とされたが,とくに任期5年の総裁は勅裁をへて日本政府により任命されるとされている点にも,日本の大陸政策上における同社の重視度が認められるのである。以上のように,同社の管理・運営にあたってはめまぐるしい変転がみられるが,その変転自体が日本の大陸政策史そのものということができる。なお,同社の現地運営面では関東軍と密接な関係に終始したことも見逃せない。関東軍は1914年(大正3)以来,同社に嘱託将校を配置し,関東軍との連絡交流を密ならしめていだが,満州国の成立後,1933年(昭和8),同社が満州国国有鉄道の受託経営を委任されると,受託業務については関東軍司令官の監督を受けることとされたために,関東軍とのあいだに密接な関係を構成するにいたっている。

【事業運営】発足当初の同社は,南満州鉄道を中心とした約1091kmの鉄道,撫順炭鉱などの鉱山を基本とするものであったが,創設数年後には第一次世界大戦による好況をむかえて順調な発展を続け,1920年(大正9)には第1次増資4億4,000万円という膨張を示し,満州の鉄道をはじめ関連諸産業界に確固たる地位を確立させた。しかし,第一次世界大戦後の経済不況の到来,そして中国の満鉄包囲政策などの主権回復運動の激化にあって,1931年(昭和6)には遂に赤字欠損を示すにいたった。こうした事態は同社そして関東軍に大きな危機感を与え,満州事変を発生させた。

 満州国からの国有鉄道および付帯事業の経営委託,そして新線建設請負契約を締結,さらに1933年,朝鮮総督府より朝鮮鉄道の一部を経営委託されるなどにより急速な発展を示した。またこのため同年第2次増資を行い,資本総額8億円となった。1938年(昭和13),満州重工業開発株式会社の設立により関連五社を譲渡し,交通・炭鉱・調査の3部門に業務集中を行った。日中戦争が発生するや北支事務局を設立して,華北交通設立をはじめ中国本土にまで進出し,1940年(昭和15)の第3次増資により資本金14億円,全従業員数27万人の大会社へと発展したが,太平洋戦争敗退とともに解散消滅した。

〔参考文献〕満鉄編『南満洲鉄道株式会社30年略史』1937,

満洲国通信社編『満洲国現勢』1934,

満洲国史刊行会編『満州国史』1970,第一法規出版

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