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●南アジア みなみアジア

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 通常,北はヒマラヤ山系のブータン,ネパールから,南はインド洋に浮かぶスリランカ,モルディヴにいたり,東はインドのビルマ国境から西はアフガニスタンに及ぶ地域をいう。アフガニスタンを南アジアから除外して考える説もあり,また,西はイランまでを含めて中央南アジアと呼ぶ方式もある。域内諸国は,インド,パキスタン,バングラデシュ,モルディヴ共和国ブータン王国,ネパール,スリランカ(旧セイロン),アフガニスタン民主共和国の8カ国で,そのほか,インド,パキスタンが分割統治するジャム=カシミールがある。

 総面積は約513万7,000平方km,そのうちインドが最大で306万5,000平方km,全体の約60%を占める。最小はモルディヴの300平方kmである。総人口は1982年度推計で約9億4,900万人,インドの人口7億1,166万人が,その約75%を占める。

 民族および言語も多様で,たとえば言語の場合,インドだけでもヒンディー語,英語のほか,憲法で公認されているものが14言語ある。また文化・宗教の面でも,ヒンドゥー教文化圏,イスラーム文化圏,ラマ教圏に大別されるが,インドのジャイナ教(シナ教)およびパンジャーブ地方を中心とするシク教,スリランカのシンハリ族の仏教など多岐にわたっている。

 地勢は,北部がヒマラヤ山系に属する山岳地帯。そのほかインダス・ガンジス両川の流域,インドのデカン高原,アフガニスタンの砂漠,熱帯の環礁群であるモルディヴなど,多くの様相をもつ。

【略史】インダス川流域に,はじめて成熟した文明が醸成されたのは前2500年ころのことで,この文明は約1,000年間続いた。その文化は,先に考古学調査を受けたハラッパー遺跡にちなんで,ハラッパー文化ともいうが,パンジャーブ地方からインダス川下流域に及び,さらにグジャラート地方をへてアラビア海のカンベイ湾にいたって存在し,海路によって,古代イラクのシュメール人との交易も行われていた。

 このインダス川流域を中心に栄えた文明は,ティグリス=ユーフラテス両川流域であるメソポタミア地方で発祥したアッシリアおよびバビロニア文明と,ナイル川流域地方で発達したエジプト文明とともに,人類最古の文明である。この文明は,前2000年紀の中盤に北西から侵入したアーリヤ人によって滅んだと考えられており,その文明の担い手は,アーリヤ人侵入以前のインダス川流域の土着民であったと思われる。

 考古学調査による発掘では,城壁,城塞をはじめ,土器,石器,青銅器が出土し,物差しやサイコロなども発見され,文字も未解読ながら出土している。当時の宗教は不明確ではあるが,後世のヒンドゥー教の基層をなすものであったと考えられる。

 パンジャーブ地方に侵入したアーリヤ人は,氏族あるいは部族を単位とし,首長に率いられ,牛を飼いながらインダス川下流のシンド地方へひろがり,その祭祀階級(バラモン)は,リグ=ヴェーダをはじめとするヴェーダ文献を生んだ。アーリヤ人は,さらにガンジス川流域へもひろがり,農業や都市をおこしつつ,それぞれの土地で原住民と混血したが,アーリヤ人は戦闘に二輪戦車を用い,射戦にも長じていた。ガンジス川中流域に入ったころには,部族あるいは氏族の統合が行われ,祭祀階級・戦士・農民・農奴という階級が生じ,やがては,これがカーストとなる。

 前600年ころ,インドは歴史時代に入る。当時,ガンジス川中流域には,マガダ国やコーサラ国のように,専制的な王が君臨する王国ができており,富と軍事力によって周辺の部族国家を併呑して帝国を築きつつあったが,同時に,普及的な宗教としてジャイナ教や仏教が台頭し,主として支配階級や商人によって受け入れられていた。

 マガダ朝は前494年ころ以降に現れ,約150年間つづいたが,前4世紀には,ガンジス川中流域から北インドの大部分を版図としていた。前327年から前325年のあいだにマケドニアのアレクサンドロス大王によるインド北西部侵入があり,それを機会にチャンドラグプタ=マウリヤがマガダ朝を倒し,前317年ころに,古代インド最初の統一国家マウリヤ帝国をつくった。この帝国は整備された官僚制度と強大な兵力によって,ガンジス川中流域からアフガニスタン南半に及ぶ広大な領土を有し,第3代アショーカ王のときに最も栄え,王は仏教を振興して善政を布いたが,王の没後は急速に衰退し,没後50年にして消滅した。

 その後,約5世紀のあいだ,インドには統一支配がなく各地で王国の興亡が相次ぎ,北西部ではギリシア人,シャカ族,クシャン族などが侵入して西部インドを支配したりしていたが,その混乱期に,大乗仏教の成立や『マヌ法典』の著作など,文化史上では注目される現象がおきている。

 320年,グプタ(Gupta)帝国が誕生し,グプタ2世のとき,その版図は南部においてベンガル湾からカンベイ湾まで,北は北西部深く,さらにはアフガニスタン東部にも及ぶ広大なものとなり,この王朝の効果的な官僚制度のもとに法が整備され,また,芸術,科学,哲学などが栄えた。

 しかし5世紀末,北西部からエフタル族(白匈奴)がインドに侵入してグプタ帝国を破壊し,グプタ朝は一地方政権に転落。インドは再び分立時代に入った。7世紀にはハルシャ=ヴァルダナ王が仏教の大帝国を建設したが,王が死ぬと統一は崩れ,仏教体制も消滅した。

 一方,アラブの攻撃によって642年にササン朝が敗れ,アフガニスタンの大部分を含むホラーサーン地方はアラブの支配下に入り,住民もイスラームを信仰するようになった。820年,アッバース朝のホラーサーン太守ターヒルがターヒル朝を創設したが,867年にはサファール朝,874年にはサーマーン朝,962年にはトルコ系のガズナ朝と,次々と王朝ができた。

 3代目のマフムード王のとき,ガズナ朝は周囲に拡張し,とくに1001年から1026年には,北部インドにしばしば遠征し,大規模な略奪と破壊を行い,かつパンジャーブ地方を領有した。しかしガズナ朝も12世紀に入ると,イラン,トルキスタン,インドの勢力によって領土を侵食され,1186年には,ゴール朝にとって代わられ,ゴール朝は東はベンガルに及ぶ北部インドの大部分を征服したが,1206年,インド駐在の部将アイバクが独立し,インド最初のイスラーム教国を樹立した。アイバクが宮廷奴隷の出身であり,彼の後継者もそうであったため,これを奴隷王朝と呼ぶ。

 1221年,モンゴルのチンギス=ハン(成吉思汗)の遠征軍がトルキスタンを席捲してアフガニスタンに侵入,占領した。モンゴル軍はインダス川の畔で奴隷王朝の軍を破ったが,インダス川を渡って進撃しなかったので,北部インドのイスラーム的制度や文物は破壊されなかった。

 1290年,奴隷王朝が倒され,同じくイスラームのハルジー朝が興り,14世紀に入ると,ハルジー朝デカン高原のヒンドゥー教国を侵略し,イスラーム王国はインド南端を除く全土を支配下に置いた。

 1320年,パンジャーブ地方にトルコ系のトゥグルク朝が台頭して勢力を伸ばしたが,1397年,中央アジアのティムールがアフガニスタンおよびインドに侵入し,モンゴルのアフガニスタン支配は終わった。ティムールはヘラートに都し,北はアラル海から南はペルシア湾,東はデリーから西はダマスカスまでを支配した。

 1451年,デリーにアフガニスタン人ロディーによってロディー朝がたてられ,ベンガル,グジャラートなどにもイスラーム王国ができ,15世紀末にはデカン高原にイラン系のイスラーム諸王国がおこった。

 15世紀には,明(みん)の鄭和(ていわ)の大艦隊が何度かインドに来航したが,1498年,ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがカリカットにやって来た。ガマはアラビア商人の迫害を受けながらも,大量の香料を積んでリスボンに帰った。ガマは1502〜1503年にも喜望峰を回航してインド航路を確立した。

 1505年,ポルトガルの艦隊はセイロンのコロンボを占領。1509年,インド西岸のディヴ沖でポルトガルの艦隊が,エジプト=マムルーク朝の艦隊を破り,紅海とアラビア海の制海権はポルトガルのものとなった。 1526年,ティムール5代目の孫バーブルがインドに侵入。デリー北方のパーニーパトロディー朝の軍を破り,デリーに入ってムガール帝国をたてた。しかしムガル帝国の創設は,ラージプート族を中心とする反抗を受け,またビハール地方にロディー朝を継承するスール朝があったため,バーブルの子フマーユーンは一時ペルシアに退き,のちにデリーを回復して没し,その子アクバルが1556年,スール朝軍を破って帝国の地位を確保し,インド最後の統一イスラーム王国が成立した。

 イギリス,オランダ,フランス各国は,それぞれ1600年,1602年,1604年に東インド会社を創立した。(フランスの同社は1664年に再組織された)。東洋への進出はオランダが早く,ジャワを中心に活躍し,マラッカ,セイロンなどのポルトガル植民地を次々と占領して,ポルトガル人を追放した。しかしインドに対しては積極的ではなかった。進出に出遅れたイギリスは,1623年のアンボイナ事件を境に香料諸島から転じ,インドへの進出を本格化した。まず1639年,インド東南部のマドラスを占領。1661年にはポルトガルからインド西岸のボンベイを譲り受け,1960年にはガンジス川下流のカルカッタにベンガル進出の拠点を設けた。 フランスはイギリスよりさらにおくれて進出した。1672年〜74年にマドラスに近いポンディシェリを獲得。1688年〜89年にはカルカッタに近いシャンデルナゴルにも拠点を設けた。英仏両国も17世紀末までは貿易の維持拡大につとめていたが,18世紀に入ると両国の抗争が激化し,インドでも両東インド会社がインドの内政に関与して,激しく争うようになった。

 1744年〜48年,さらに1750年〜54年,南インド東岸のカーナティック地方で第1次および第2次英仏戦争があってイギリスが勝ち,1757年にはベンガルのプラッシーでイギリス東インド会社軍と,フランス・ベンガル土侯連合軍が戦い,イギリス側が圧勝した。翌1758年から63年にかけて,第3次カーナティック戦争があって,またイギリスが勝利を収め,1763年の講和で,インドにおけるイギリスの圧倒的優位が確定した。 イギリスは,プラッシーの戦いで司令官として活躍したクライブを,翌1758年に初代ベンガル知事とし,1765年には,このガンジス川下流一帯のインドで最も豊沃な地域は,イギリス東インド会社の領有地となり,同年,イギリスはベンガル,オリッサビハール各地域の徴税・司法権まで獲得した。

 インド南西部のマイソール土侯国や,デカン高原西部のヒンドゥー系マラータ族諸侯は,イギリス勢力の伸長に反発したが,イギリスは1767年〜69年,1780年〜84年,1790年〜92年,99年の4回にわたってマイソール土侯国と戦い,これを征服した。また1775年〜82年・1803年〜05年・1817年〜18年には,マラータ諸侯連合体のマラータ同盟と戦い,これを制圧した。

 1814年,イギリス東インド会社は国王の特許状期限の満了により,インドでの貿易独占権を廃止され,1833年にはその領有地もイギリス国王に移譲された。その間,1815年のウィーン議定書により,イギリスはセイロンをオランダから取得し,モルディヴをその保護下に入れた。1845年〜46年・1848年〜49年,イギリス軍は西北インドのシク教徒と戦い,これを撃破してパンジャーブ地方を併合。全インドの征服を完成させた。

 1857年,イギリス軍のインド人傭兵(セポイ)の暴動をきっかけに,北インド一帯に,農民・市民・旧支配階級までが参加した大規模な反乱が発生して1年余に及んだが,指導原理や組織力に欠けていたため,イギリス軍に鎮圧され,反乱軍に推戴されたムガル皇帝は,1857年に捕えられ,翌年ビルマに流され,ムガル帝国は消滅した。

 セポイの反乱の責任をとってイギリス東インド会社は解散し,インドは英政府が直接統治することになり,1877年,ヴィクトリア女王がインド皇帝に就任を宣言。インドは正式にインド帝国の呼称をもつにいたった。

 19世紀以降,ロシアの南下にインド防衛上の脅威を感じたイギリスは,アフガニスタンを勢力下に入れるべく,1838年〜42年に第1次アフガン戦争をおこし,1878年〜80年の第2次アフガン戦争の勝利によって,アフガニスタン領土の一部をインドに割譲させ,アフガニスタンの外交監督権を得た。またインド帝国には,1876年にはバルチスタン地方が,1886年にはアッサムとビルマが加えられ,帝国はさらに巨大なものとなった。

 セポイの反乱後,イギリスのインド統治は懐柔的なものとなり,大小550以上にのぼる旧土侯国に内政権を与え,保守的な藩王国を保護した。また1885年,反英運動の中和剤として,イギリス主導で,商人・地主・知識人などの代表的な名士により,対英協調的なインド国民会議が創設され,当初はイギリスのインド総督に諮問されるだけの穏健なものであったが,しだいに民族運動の中核的な存在へと性格が変わっていった。

 1905年〜06年の日露戦争で,新進小国の日本が大国ロシアを破ると,その勝利はインドの民族運動に刺激を与え,1906年の国民会議派のカルカッタ会議では,はじめての独立実践綱領が採択された。同じく1906年,全インド=ムスリム(イスラーム)連盟が結成された。これもヒンドゥー教系の国民会議派との分断を狙ったイギリスの政策によるものであったが,この連盟もインド第1主義をかかげ,イギリスの思惑どおりにはならなかった。

 1914年に始まった第一次世界大戦では,インドはイギリスのために兵員や軍費を負担し,その代償として独立を期待していたが,それが報いられず,かえって抑圧政策がとられたので,ガンディーが指導する「非暴力・不服従」の反英運動は,たちまち全土にひろがつた。

 1905年以来イギリスの保護国となっていたアフガニスタン王国は,第一次世界大戦中は中立を厳守した。1919年2月,ハビーブッラー=アッラー王が反英主義者に暗殺されたが,同年,後継者アマヌッラー=アッラー王が第3次対英戦争をおこし,同年8月の和平条約で独立を獲得した。

 インド帝国に併合されたビルマでも,第一次世界大戦を機に民族主義運動が盛んになり,インド商人の排撃とインドからの独立運動が激しくなったため,イギリスは1937年,ビルマをインドから分離し,ビルマ総督直轄の準自治領としたが,1938年〜39年にも強烈なインド人排斥運動があり,さらには反英独立運動へと発展した。

 1941年(昭和16)12月8日,大東亜戦争(第二次世界大戦参入時の日本側の呼称)に突入すると,日本軍の一部は早くも12月13日にタイからビルマに侵入。主力は翌年1月20日,タイ・ビルマ国境を突破し,1月31日モールメン,3月8日ラングーン,5月1日マンダレーを占領し,ほぼ5月中にビルマのイギリス・インド軍はインドに敗走した。

 しかし,緒戦で勝利を博していた日本海軍も,1942年6月のミッドウェー海戦で敗北,空母4隻を失い,太平洋の制海権はしだいに米海軍に移って敗色濃くなり,また中国戦線の日本軍も停滞気味であった。

 1943年5月,日本政府は御前会議で“大東亜政略指導大綱”を決め,ビルマとフィリピンを独立させ,それによって,南方諸民族の対日協力を促進し,戦局の挽回をはかろうと策した。この方針によって,日本は占領地のビルマを8月1日,フィリピンを10月14日に独立させた。なお日本軍は開戦直後にビルマ人の義勇軍を組織し,その反英独立主義を利用して日本軍に協力させていた。

 日本軍は連合軍がビルマ奪回の本格的作戦を開始するのは1943年11月ころと予想していたが,早くも1942年11月,英印軍はビルマ南西部に反攻を試み,さらに1943年1月にはウィンゲート少将率いる英兵・グルカ兵からなる旅団が,北部ビルマに進入して鉄道破壊作戦を展開したが,両兵力とも1943年4月から5月にかけて,インドに撤収した。しかし,米国のスティルウェル中将の率いる中国軍は,1943年10月,雲南省方面から北ビルマに進出してきた。

 1943年11月5日,東京で大東亜会議が開かれ,中国南京政府主席,満州国総理,タイ王国首相代理,フィリピン大統領,ビルマ首相が出席し,これに日本の力を借りてインド独立を達成したいと同年10月にシンガポールで結成された自由インド暫定政府首班のチャンドラ=ボースがオブザーバーとして出席した。

 日本軍は,長大なインド・ビルマ国境を守るよりも,一挙にインパールの反攻基地を衝きたいと考えていたが,その作戦の存在を知ったチャンドラ=ボースは,自ら自由インド義勇軍を率いて参加すると述べ,積極的に作戦を支持した。1944年3月,日本軍はインパール作戦を開始した。すでにビルマの制空権は連合軍が握っていた。しかも2月には米軍1個連隊が北ビルマの戦場に参入し,3月にはフーコン峡谷を制圧した。さらに3月6日から11日にかけて,ウィンゲード兵団9,000余名が数百台のグライダーで,中北部ビルマに進入。

 インパール攻略をめざした日本軍は,4月6日,インパール北方の要衝コヒマを占領したが補給が続かず,4月下旬には雨季に入り,日本軍は弾薬も食糧もなく,豪雨と泥濘のなかで戦闘力を失い,チャンドラ=ボース率いる自由インド義勇軍も,インパール攻撃を熱望しながらも,インパール東南方にとどまった。中北部ビルマの日本軍補給線はウィンゲート兵団によって寸断されていた。

 6月3日,コヒマを占領していた日本軍は自由インド義勇軍に無断で勝手に退却。ついに7月9日,全軍に撤退命令が下り,日本軍は飢えた傷病兵の群となって退却した。後方から英印軍が迫り,頭上に敵機が舞い,渡るべき河には濁流が溢れていた。退路にはおびただしい日本兵の死体が残った。

 8月3日には,ビルマ東北部の要衝ミートキーナが,米軍・中国軍によって攻略された。以後,日本軍は雲南方面からの米中軍,南西部国境からの英印軍,中北部のウィンゲート兵団,さらには8月に結成されたビルマの抗日民族統一戦線軍を相手に敗北を重ね,ビルマ東南部に追いつめられて,1945年8月15日の敗戦を迎え,チャンドラ=ボースは8月18日,台北での飛行機事故で死亡。

 翌1946年5月,英国首相アトリーインドの独立を認める声明を発し,1947年8月,デリーを首都とするヒンドゥー教徒のインドと,カラチを首都とするイスラームのパキスタンに分かれて独立が実現した。しかし550以上に及ぶ藩王国の帰属をめぐって印パ両国は対立し,ジャム=カシミールのように,帰属をめぐって砲火を交え,現在にいたるも未解決の地域もある。

 インド・パキスタンの独立につづき,1948年にスリランカが独立し,モルディヴはおくれて1965年に独立した。この間,インドは1950年に,パキスタンは1956年に共和制に移行。また1959年のチベット人の中国に対する反乱と,ダライ=ラマのインド亡命は,中国・インドの国境に緊張を生じ,同年10月,国境戦争がおこって中国が優勢のまま,11月,中国が一方的に停戦して現在にいたっている。

 パキスタンは建国時から西と東に分かれて存在し,西と東とでは民族も言語も異なることから何かと摩擦が生じ,東ではベンガル民族主義を唱えるアワミ連盟を軸に自治拡大運動がおこり,1971年3月には,東はバングラデシュ独立を一方的に宣言し,これを西が武力鎮圧しようとしたために難民がインドに流入。12月4日,インドが東に加担して軍事介入し,印パ戦争となったが,同月16日,パキスタン軍が降伏し,同月22日,ダッカを首都としてバングラデシュが建国された。

 アフガニスタンでは,1973年,クーデタで王制が廃され共和国となったが,1978年,再びクーデタで社会主義を標傍するタラキ政権が誕生。しかし翌1979年9月の政変でタラキが殺害され,ハフィズラ=アミンが権力の座についたが,同年末,ソ連軍が侵入してカルマル政権が成立した。以後,ソ連は常時10万に及ぶ大軍を投入してイスラーム教徒ゲリラの掃討を行ったが成功せず,介入5年後の1984年末現在,12万とも15万ともいわれる大兵力で対ゲリラ戦を継続中である。