●水戸藩 みとはん
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江戸時代の藩名。1602年(慶長7),水戸城主佐竹義宣が出羽国秋田に移ったあとに徳川家康の五男武田信吉(15万石)が入ったが翌年病死,同年家康の十男頼宣(20万石)が入り,1609年(慶長14),駿府に転封。同年家康の十一男頼房(25万石)が入り,以後明治まで頼房の系譜がつづく。藩主は初代頼房(威公)・光圀(義公)・綱条(粛公)・宗?(成公)・宗翰(良公)・治保(文公)・治紀(武公)・斉修(哀公)・斉昭(烈公)・慶篤(順公)・昭武(節公)とつづき,廃藩置県となる。水戸徳川家の官位は従三位権中納言。紋は葵。城は常陸国茨城郡水戸。江戸城内の詰所は大廊下。紀伊・尾張とともに御三家として別格待遇であり,幕政諮問に応ずるほか,手伝い普請はなく,参勤交代のない定府制である。江戸上屋敷は江戸城内松原小路,のち本郷小石川(附属庭園に後楽園がある),中屋敷は本郷駒込,下屋敷は本所小梅,荷揚場(石場)は本所竹町,鷹場は下総国小金,蔵屋敷は大坂中之島,蔵元は長浜屋新六,京都屋敷は上京上長者町通室町東入ル,墓所は常陸国久慈郡太田村瑞竜山,藩校は弘道館(天保13年開館),大日本史編さん局は彰考館であった。連枝は4家。讃岐国高松12万石松平氏・陸奥国守山藩2万石松平氏・常陸府中藩2万石松平氏・常陸宍戸藩1万石松平氏である。幕府からの付家老中山2万5,000石のほか,山野辺・伊藤・芦沢・鈴木・朝比奈等諸家が家老を勤める。1670年(寛文10)の家臣団は陪臣をふくめ約4,000名。領地は初め,25万石。1622年(元和8),常陸国多賀郡手綱城主戸沢氏転出のあと3万石を得て表高28万石,1641年(寛永18),領内検地の打出高を加えて36万石余の内高となる。1701年(元禄14),表高35万石を認められる。所領の大部分は那珂川以北の那珂・久慈・多賀3郡に集中しており,北部は山村で,紙・煙草・蒟蒻の特産地帯,東部・西部は岡場所,南部は平場の農村である。【藩政】水戸藩は新規取立大名で,2代光圀の治世に法制整備・殖産興業・社寺改革・『大日本史』編さんを含む文教奨励など藩政の基礎はおかれたが,3代綱条のときには藩財政は窮迫,浪人松並勘十郎らを登用,年貢増徴・運河開さくによる商品流通の促進をはかる,いわゆる宝永の新法を行ったが,全領の農民一揆がおきて挫折,以後享保・寛延・宝暦と藩政改革は企図されたものの失敗し,藩政は停滞した。文化ごろには領内に手余り地は増え,人口も減少した。寛政年間,育子・諸貸付など含む農村振興策・献金郷士制など採用された。9代斉昭は全領検地・年貢増徴・産業振興・社寺改正・藩校創設・海岸防衛など,農村の変革をおさえ藩財政をたて直し,外国勢力への警戒を強くするなど封建制再編をねらいとする天保の改革を推進したが,幕府に忌避されて1844年(弘化1),引退した。改革の中心にあった軽格派とその周辺にあった保守門閥派に対立が生じた。1853年(嘉永6),ペリー来航後に斉昭は幕府の海防参与となり中央政界に発言力をもったもののその強烈な攘夷説は指導的な政治勢力とはなりえず,加えて藩内の改革派から生じた天狗党と保守派から出た諸生党の対立は激化し,桜田門外の変,坂下門の変,筑波天狗党の挙兵と西上途上の全滅,諸生派の戊辰戦争における衰亡を招き,維新後の中央政界にまったく発言力を失った。
【文化】水戸藩の学芸は彰考館に勤める学者を中心に展開した。元禄・寛文ごろの史学の安積澹泊・佐々宗淳・国学の安藤為章・山本春正ら,寛政前後の史学,詩文の立原翠軒・小宮山楓軒・藤田幽谷,地理学の長久保赤水,俳諧の遅月・幻窓湖中,文人画の林十江ら,幕末に史学の会沢正志斎・藤田東湖・豊田天功,医学の本間玄調,本草学の佐藤中陵,国学の西野宣明,文人画の立原杏所らが輩出した。水戸地方の文化が成長するのは江戸を中心とする経済圏に入り,人と物の流通が盛んになる中期以降である。また,斉昭・東湖・正志斎らの名分論,尊王攘夷論は弘化・嘉永ころ,有力な政治理論として全国に影響した。