50音順    検 索

●水戸学 みとがく

アジア 日本 AD 

 江戸時代の後期水戸藩に成立した国家主義思想。広義には,徳川光圀が『大日本史』の編さんを始めて以来興起した水戸藩の学問全体をさすとも考えられるが,本来の意味では,19世紀になってから水戸藩に成立した独自の学風をさすと狭義に解するのが適切である。すなわち,水戸学は,江戸時代,「水府の学」「天保学」などと呼ばれ,水戸学という呼称が一般的になったのは明治時代に入ってからであって,「天保学」の呼称は,この時期から水戸藩の学風の独自性が全国的に注視の的となったことを端的に示している。水戸藩における学問の興隆は,2代藩主徳川光圀が,1657年(明暦3),史局を江戸の藩邸に開設して『大日本史』の編さんに着手したことに始まるが,修史事業を中心とした前期の学問と尊王攘夷思想を説いた後期の学問とのあいだには性格上に無視しがたい差異が認められる。まず前期についていえば,光圀の招きに応じ修史事業遂行のため参集した学者には,儒者とくに朱子学の歴史思想にもとづいて,日本の歴史を理解しようとする傾向が強かった。したがって,史局員にとっては『大日本史』の本紀・列伝に記述すべき,歴代天皇を含む史上の人物に対し,道徳上の評価を確定することが最も重要な任務とされていた。光圀が晩年,修史事業を回顧して〈皇統を正閏し,人臣を是非し,輯めて一家の言を成す〉と『梅里先生碑文』に述べたのも,既成の通念にとらわれない独自の判断を史上の人物に下すことができたという自信の表明と解される。前期の代表的学者には『大日本史』の「論賛」を執筆した安積澹泊,史料収集に活躍した佐々十竹,『保建大記』の著者栗山潜鋒,『中興鑑言』の著者三宅観瀾などがいる。これに対し後期は,朱子学を批判して荻生徂徠(1666〜1728)が唱えた新しい儒学の思想と,本居宣長(1730〜1801)の唱えた国学の思想などから影響を受けて独自の思想が形成された。したがって光圀時代の学風は後期のそれの源流とみることは可能でも,思想上の差異が認められるので,水戸学の呼称を広義に使う場合にも,前期水戸学と後期水戸学とにこれを区別して示すのが一般的である。

【成立】水戸学の思想を体系的に表現した最初の人物は藤田幽谷(1774〜1826)である。幽谷は『正名論』を著し,君臣上下の名分は天と地が変わらないのと同様不変であるべきで,これが確立して初めて社会の秩序を維持することができるとし,尊王思想のための理論的根拠を与えた。幽谷の思想は門人会沢正志斎と子息東湖に継承された。会沢は1825年(文政8),『新論』を著し,現実に直面する政治上・軍事上の諸問題を取り上げて熱烈な尊王攘夷論を主張した。その主張は,藩財政の窮乏,農村の疲弊,士風の弛緩などに現れた内政問題と,西欧列強の圧力が増大する対外問題との,両面から迫りくる幕藩体制の危機を深刻に受けとめ,その危機打開策として,まず民心の統合を実現し,国内政治の改革を断行して国家の統一強化をはかることの必要性を説いた点に特色がある。また東湖は藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の信任を得,天保の藩政改革を推進する斉昭を補佐した。その主著『弘道館記述義』は,改革政治の眼目の一つとして開設された藩校弘道館の教育目標を示した『弘道館記』の解説書であるが,東湖は記紀の建国神話に始まる歴史過程に即して「道」を説き,日本社会に固有の道徳理念を明らかにしようとした。東湖はまた,『回天詩史』『正気歌』を述作し,これらは幕末志士のあいだに愛誦された。会沢が国家的視野から政治論を展開したのに対し,東湖は国民が実践すべき道徳論を説いたといえる。

【影響】水戸学は,天下有識者の注目を集めた水戸藩天保改革の思想的裏付けとなっただけでなく,吉田松陰らに多大の感化を及ぼして幕末に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり,さらには明治国家の支配原理ともいうべき「国体」思想の源流ともなった点で,重要な歴史的意義をもつ。

〔参考文献〕『水戸市史』,『水戸学』岩波日本思想大系