●三菱 みつびし
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明治維新の時期に岩崎弥太郎によって創立された,三井と双璧の巨大財閥で,太平洋戦争後の財閥解体以後も株の持ち合いによる三菱グループとして存在する。【三菱の成立】岩崎弥太郎が海運業者となる契機は,廃藩置県に伴う外債処理で土佐藩の外債を引き受ける代償に「夕鶴」,「鶴」の2隻を手に入れてからであったことは知られている。1870年(明治3)10月9日,土佐藩大阪出張所が解散し,土佐開成商社と改称したが,政府はこれを許さず,10月18日,九十九(つくも)商会となり藩船3隻の使用を許され,運営しており,1872年1月,三川商会(川田小一郎・石川七財・中川亀之助の川の字をとる)となった。1873年3月,三菱商会と改称されたころ,地租改正が本格化して海運業がようやく利益を生む事業であることが認識され,弥太郎は製糸場,しょうのう製造所をしだいに放棄し,海運業に専業化した。1874年2月,征台の役に政府の13隻の輸入船の委託を積極的に受けて,三菱は弥太郎個人の企業に近くなり,1875年5月,「三菱蒸気船(汽船)会社規則」第1条で,同社が「一家一事業」であることを宣言した。
【三菱と海運】廃藩置県の翌1872年8月,半官半民の日本国郵便蒸気船会社が開業許可されていたが,三菱はこれを打ち負かした。1875年5月,政府が,13隻の船と,郵船の18隻を買い上げて,同社を解散させ,三菱へ下付,年25万円15カ年間の補助を獲得した。政府はこれによって国内沿海および上海航路から外国汽船会社を排除することに成功したが,一方,三菱の国内海運独占に手を貸すことになった。三菱への補助を決めた大久保利通の暗殺と「明治14年の政変」で大隈重信が追放,三菱への反感は強くなり,1881年の高島炭坑買収に対し1882年2月,海運業以外の産業を兼ねることを禁止し,政府は三井の資金を背景とした共同運輸会社設立を援助し三菱と競合させた。そのあいだに弥太郎は死に,両社共倒れの危機から合併,1885年10月,日本郵船会社が成立した。弟弥之助が第2代を継ぎ,1886年3月,郵船汽船三菱会社は三菱社となった。
【三菱の発展】“海から陸へ”移った三菱は,高島炭坑を中心に本格的に炭坑経営に乗りだす。筑豊へ進出して新入(しんにゅう),鯰田(なまずだ),大正期には北海道に進出して美唄(びばい),大夕張を手に入れ,三井と並んで石炭業界を2分する。一方,非鉄金属部門への進出は三菱の特徴である。1873年末,吉岡銀山を買収してのち,尾去沢(おさりざわ)のほか,佐渡・生野両金銀山,大阪製煉所の払い下げを1896年に受け,炭坑とともに三菱の鉱山経営を不動のものとした。また,1884年6月,共同運輸との競争の最中に官営長崎造船所の貸し下げが行われた。このとき三菱は1875年,横浜に三菱鉄工所という修理工場をもっていたため,その技術者を移して即日経営,1887年6月,払い下げも受けることができた。当初は修理が主であったが,日本郵船から「常陸丸」を受注し,1896年の航海・造船両奨励法を契機に設備拡充を行い,1897〜1912年,造船奨励金総額の66%を受け,第一次世界大戦ブームで躍進,太平洋戦争中に戦艦「武蔵」7万tを製造するにいたる。神戸造船所,三菱電機,三菱製鋼,日本光学,三菱航空機(「零戦」製作)など造船所から三菱重工業へ発展したものは多い。化学工業は旭硝子,日本タール(両社合併で三菱化成工業)のほか石油にも進出,太平洋戦争後の発展につなげた。
【三菱の組織】1894年,三菱合資会社が発足,翌年,第百十九銀行を継承して銀行部が,1896年,売炭部(のちの営業部)・鉱山部が成立した。1912年に炭坑部が設立され,鉱山部と炭坑部が合併して1918年に三菱鉱業となり,こうして「三菱」を冠した造船・商事・銀行・信託・製鉄(のち日本製鉄に合併)・倉庫・海上火災が独立の株式会社となり,合資を持株会社とするコンツェルンが形成された。合資発足のとき弥太郎長男久弥が第3代に,1916年には,弥之助長男小弥太が第4代社長に就任,戦時中の株式一部公開により社会資金も導入した。
〔参考文献〕三島康雄編『三菱財閥』1982,日本経済新聞社