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●密教 みっきょう

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 顕教の対。秘密教・秘密宗・密宗・秘密乗・秘密蔵・秘蔵・秘密一乗・全剛乗など。秘密の教えの意。秘は秘奥,密は隠密。深い秘められた教えを浅い簡略な教えに比すれば,前者はすべて秘密の教えといえる。顕教と密教との区別は,『大智度論』に仏教を区別して秘密と顕示の2教に分けている。また,『大乗理趣六波羅蜜経』では仏教を[1]素怛繿(そたらん)蔵,[2]毘奈耶(びなや)蔵,[3]阿毘達磨蔵,[4]般若波羅蜜蔵,[5]陀羅尼蔵の5蔵に分類するが,[1]〜[4]は顕教,[5]は密教である。また,部派仏教の一派の法蔵部,トクシ※注1※部などでは従来の[1]経蔵,[2]律蔵,[3]論蔵のほかに明呪(みょうしゅ)蔵の分類を加えるが,これは密教の典籍である。13世紀のアドヴァヤヴァジュラは『真理の宝冠』のなかで,大乗仏教を般若波羅蜜多理趣と真言理趣とに分ける。これはそれぞれ顕教と密教とに対応する。しかし,わが国でふつう密教という場合は,中唐の時代にインドから伝来した中期密教を,空海(774〜835)がわが国に請来した密教の流れをさす。これによると,一般仏教は開祖釈迦如来の説いた教えのみであるに対し,密教は永遠なる法身(ほっしん)大日如来が自らの随伴者とともに説いた教えであって,大日如来のさとりの境界であり,したがって深密秘奥なる秘密の教えである。また,空海は秘密には衆生秘密と如来秘密とがあるとする。衆生秘密は人々の内奥に秘められた秘密の世界であり,如来秘密は絶対者である如来すなわち大日如来が秘密にして顕わに説かないところのものである。歴史的にみると,わが国に伝えられた密教すなわち真言密教・真言宗はインド大乗仏教の最終段階を迎えた7,8世紀ころに大成されたものである。信仰説によれば,大日如来・金剛サッタ※注2※・竜猛(りゅうみょう)・竜智・善無畏金剛智不空恵果の相承系譜があり,恵果より空海に伝えられた。また,天台系の密教(台密)は,入唐した最澄が越州の順暁から善無畏系の密教を学んで,これをわが国に伝え,その後,円仁・円珍らが入唐して密教を伝えた。空海は真言宗を開いた。台密に対して,これを東密(東寺系の密教)という。円仁・円珍・安然らによって密教は天台宗と融合し,中国天台宗とは趣を異にするにいたった。空海は『弁顕密二教論』で密教と顕教(密教以外の一般仏教)と対比して,仏教における密教の位置づけをした。それによると,密教は絶対の仏である法身大日如来が自らのさとりを永遠に説いている教えであるのに対し,顕教は相手の資質能力に応じて説かれる仮の教えで,釈迦如来・阿弥陀如来などが教主である。平安末期に現れた覚鑁は『顕密不同頌』を著して,空海の説を敷衍した。

【歴史】インド密教。初期仏教の時代には,釈尊はすべての呪術・呪文などを禁止した。しかし教団の発達とともに民間信仰の呪文などを取り入れ,いわゆる雑部の密教がしだいに形成されていった。

 起源的にみれば,密教には超自然的な呪術信仰も含まれるので,インド=アーリア民族の最古の聖典『リグ=ヴェーダ』の時代,さらにはインダス文明のさまざまの原始信仰までさかのぼることも可能であろう。民間信仰の色彩の強い『アタルヴァ=ヴェーダ』には除災招福の各種の呪文または呪法が認められる。仏教でも前2,3世紀ごろの部派仏教の一部では,パリッタ(paritta)と称する密呪の一種が用いられ,法蔵部はそうした密呪などを集成した明呪蔵をもっていた。さらに,2,3世紀ごろから除災を目的とした雑部密教の経典が数多く編集されるようになった。これらはいずれも一般大衆を教化救済するための手だてとされた。一方また2世紀ごろからヘレニズム文化の影響を受けて,西北インドのガンダーラ地方で仏像製作がはじまる。たとえば,『観仏三昧経』にみられるような仏の観想の仕方,儀礼作法が説かれるようになった。紀元前後に興起した大乗仏教の般若・法華・華厳などの主要な経典のなかには密呪がある。密呪は陀羅尼(dharani),明呪(vidya),真言(mantra)などと呼ばれ,いずれも一般大乗経典では,瞑想の際の手段に用いられた。さらに経典読誦の代わりに,または経典読誦の功徳を得るために唱えたり,さらにさとりの表現として用いられるなど,その用途目的は必ずしも一定しない。北インドでグプタ朝がおこった4世紀ごろから,除災招福のための各種の密教経典が現れた。またヒンドゥー教や伝統的なバラモン教の宗教儀式・儀礼の影響を受けて密教の儀礼作法(修法)の発達が促進された。これらは,仏教が一般民衆のあいだにひろまるためにヒンドゥー化せざるを得ない必然的な現象であったとみられる。6,7世紀の中世諸王朝分立時代に,体系的・組織的な密教の経典・儀軌が編集され,7,8世紀ごろに代表的な密教経典である『大日経』(『大毘盧遮那成仏神変加持経』),『金剛頂経』(『真実摂経』いわゆる『タットヴァ=サングラハ』と呼ばれるもの)が成立した。いずれも大日如来を本尊とし,前者は胎蔵曼荼羅により,後者は金剛界曼荼羅によって密教の世界を表現する。そして大乗仏教の基本的立場をふまえて純化された儀礼・儀式を整備した。このうち,『金剛頂経』の密教が後期インド密教の主流を形成するにいたった。『大日経』『金剛頂経』はいずれも漢訳,チベット訳された。わが国には,入唐した空海がこれをもたらし,両部の大経と呼ばれる。インドでは13世紀初頭に,イスラーム教徒の破壊によってインド仏教が滅亡するまで,密教はとくに北インドのパーラ王朝の庇護のもとに隆盛をきわめ,秘密集会(しゅえ)タントラ,母タントラ系,時輪系の密教が栄え,各種の流派が細かく分派した。チベットには8世紀ごろからインド密教がヒマラヤ山脈を越えて伝播した。

 チベット密教。チベット密教は,通常チベットの大学者プトン(1290〜1364)の分類に従って前期・後期に分ける。前期は7世紀にチベットを統一したスロンツェンガンポ王の時代に始まる。王はネパール,中国より王妃を迎え,このとき同時に両国より仏教が流伝した。9世紀にインドからチベットに入ったパドマサンバヴァが伝えた密教は,土着のボン教と習合し,チベット独自の密教が成立した。これをラマ教というのは,19世紀の西洋の仏教学者が名づけたものであって,チベットでは,単に大乗教といっている。9世紀はじめにチベット密教経典を整理した『デンカルマ目録』が編集された。841年,ランダルマ王は破仏を行い,隆盛をきわめたチベット密教が衰微したが,以後,後期の時代を迎えた。後期は仏教復興に始まるが,前期に比べて密教色が顕著である。アティーシャ(982〜1054),プトン,ツォンカパ(1357〜1419)が現れた。チベット仏教を改革したツォンカパから黄帽派がおこり,伝統的な仏教は紅帽派と呼ばれた。黄帽派はガンデン,デプン,セラ,タシルンポを4大本山とする。

 中国密教。3〜6世紀にわたって,シルク=ロード経由で中央アジアまたはインドの密教が中国に伝えられた。この時代の宗教はいわゆる雑部で,いずれも密呪経典が翻訳された。中唐の時代になると,中インド出身の善無畏(インド名,シュバカラシンハ・639〜735)が来唐して『大日経』を,南インド出身の金剛智(インド名,ヴァジュラボーディ・671〜741)が来唐して『金剛頂経』の一部を翻訳した。金剛智の弟子の不空(705〜774)もまた,多数の密教経典を翻訳し,唐密教の全盛期を迎えた。その弟子恵果は,両部(『大日経』『金剛頂経』の密教)を完成し,現図の胎蔵,金剛界の両部曼荼羅を完成した。恵果後,『大日経』系の蘇悉地(そしつじ)経が行われ,これはわが国の天台宗に伝えられた。宋代には施護(980〜)が大部の密教経典を翻訳し,その一部はわが国にも伝えられた。

 日本密教。奈良時代にすでに両部の大経をはじめ主要な密教の経典がわが国に伝えられたが,実際に行われたのは雑部の呪的な密教であった。体系的な純部の密教は,前述のように『大日経』,『金剛頂経』に代表され,これらは平安初期に空海によって伝えられ,真言宗が成立した。密教の道場は紀州高野山,京都東寺である。天台系の密教は最澄がその一部を伝え,円仁,円珍,安然によって大成された。東密は覚鑁の改革後,古義系と新義系とに分かれた。古義系は高野山金剛峯寺をはじめ,仁和寺・大覚寺・醍醐寺・勧修寺・泉涌寺・善通寺などを総本山とし,新義系は智積院長谷寺を総本山とする各派に分かれる

〔参考文献〕松長有慶『密教の歴史』

宮坂宥勝『真言宗 日本仏教基礎講座』3

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