●三井 みつい
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大政奉還,明治維新政府の成立を含む幕末から明治初期にかけて,三井は幕府と朝廷支持勢力のあいだを巧みに縫って「三井財閥」誕生に重大な地歩を築いた。幕末期の三井は幕府の用金調達などの困難からやや不振であったが,横浜開港に伴い三井横浜店を設け,幕府の勘定奉行小栗忠順に近かった利左衛門に番頭三野村家を相続させる抜擢を行った。三野村利左衛門は第13代八郎右衛門高福とともに時勢をみきわめ,反幕勢力と連絡し官軍の兵站をまかない,新政府会計基立金300万両,太政官札発行額3,000万両を担うなど巨額の出資を注ぐ。1859年(安政6)に幕府の外国奉行所御金御用達を命じられて,10年たたぬあいだの新政府御用達筆頭の地位についた三井は,政商としての性格と体質を十分に発揮した。大番頭三野村を軸とした近代政商としての発展をみると,1876年(明治9),それまでの三井組為替バンクを三井銀行に改組,同じ年,三池炭鉱の払下げを得て,三井物産を発足させた。官業払下げの利を得る上で,井上馨・山県有朋ら長州系要人との関係が影響していた。幕末ころ,三井は伊豆七島の産物を貰い集めて島方と称し,これは維新後,井上馨の先収会社と合併,三井物産のもととなっている。渋沢栄一のすすめで小野組と共同出資,第一国立銀行設立を実現したことも三井の発展上意義深い。三野村が発起人であり,高福が頭取,その子八郎次郎は取締役の座についた。三野村に続く首脳で三井銀行から出た中上川彦次郎は工業経営に幅広く進出,1893年以降,芝浦製作所,北海道炭鉱汽船,鐘ケ淵紡績,王子製紙などを支配下に組みこんで,1909年,三井合名会社が成立した。第一次世界大戦前には三井合名会社のほか直系,傍系合わせて11社,日本最大の財閥たる地歩に立ち,大戦後も事業拡張を進めて97社が支配下に入った。1924年(大正13),近代労働運動史上重要な三井三池製作所炭鉱争議が発生するが,この争議は,明治以来政友会と緊密であった三井に対する憲政会の支持があったといわれる。1927年(昭和2)の金融恐慌と以後の経済界の動揺期,三井は弱小企業の合併により一段と膨張,1930〜31年,三井合名会社だけで資本金3億円,子会社40の総合計資本金10億3,700万円と称した。三井合名の発足から20年間でほぼ6倍の資本規模となっている。満州事件の勃発,五・一五,二・二六事件などの右傾化の進むなかでの三井合名理事長団琢磨の暗殺事件は「財閥三井」に方針転換をもたらした。第一次近衛内閣の蔵相ともなった池田成彬は経営陣からの三井一族の退陣,持株公開,社会公共事業への献金など,三井のイメージ転換をはかりつつ,より巨大性と緻密さを組み合わせた発展が明瞭である。日中戦争から太平洋戦争時においては,積極的に占領地に進出,総合的財閥としての頂点に立った。戦争終結後,1945年9月時点での三井は本社資本金5億円,直系10・準直系12・関連会社151・合計資本額は28億円を超えていた。1946〜47年の財閥解体にあったが,1950年から再び三井系諸企業の系列化が進められ,今日も日本経済界に枢要な役割を演じている。
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