●ミタンニ
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古代オリエントの王国。前16〜前14世紀にシリアと北メソポタミアを支配し,いわゆる“アマルナ文化圏”の一翼を担った。前2000年初めごろの民族移動で,この地域にフルリ人が定住したが,バビロニアの衰退と,アナトリアのハッティの混乱によって生じた権力の真空状態のなかで,彼らは統合され王国をつくった。マリュアンヌと呼ばれた支配階級の貴族たちは,フルリ語ではなく,古代インドのサンスクリット語に似た言語を話すアーリア系人種であり,戦車を駆る戦士集団であって,ハッティやカッシートと同様に,一種の封建体制を形成していたように思われる。彼らは,オリエントに初めて馬と戦車を導入したと考えられるのであり,この点で,中王国末期のエジプトに侵入したヒクソスとの関係が推測されるのである。王国の首都はワシュガンニであるが,その正確な場所は未だ知られていない。ミタンニの最盛期は前15世紀で,東に進出してアッシリアを支配下に置き,アッシリア王の幾人かを確実に属臣にしたようである。西方では小アジアの一部を獲得し,南方では第18王朝のエジプトと対決した。トトメス3世と戦い(前1480ごろ),アメンホテップ(アメノフィス)2世と戦ったが(前1445ごろ)敗北した。しかし,復興してきたハッティの脅威に対処するため,両国はまもなく友好を回復した。ミタンニの王女が,トトメス4世やアメンホテップ3世の後宮に入って同盟関係を強化した。しかし王位継承をめぐる内訌や,ミタンニ貴族とフルリ人の対立などが王国の勢力を弱め,ハッティの干渉を招いた。前14世紀初め,トゥシュラッタ王は,一時体制の立て直しに成功したが,アマルナ時代のエジプトは,もはや頼るべき同盟者ではなく,ハッティのシュッピルリマシュ大王(在位前1380ごろ〜前1346)の干渉政策が功を奏して,王の死後,息子マッティワザはハットゥサに亡命し,大王の庇護下に入った(前1365ごろ)。このころ混乱を利用してアッシリアが独立し,英主アシュルバルリット1世(在位前1365ごろ〜前1330)のもとに,ミタンニを攻撃し,王国の大半を併合した。滅亡は,前1300年ごろとも,その少し後ともいわれる。有名なアマルナ文書やボガズキョイ文書が資料であるが,ミタンニ語やフルリ語,文化などについては依然不明な点が多い。フルリ人の西方拡大は,彼らの宗教を小アジアにもたらし,最高神テシュプ(山岳神,雷神)とハパト(豊穣神)の夫婦神がハッティ王国の汎神殿を飾ったのである。