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●ミケランジェロ

ヨーロッパ イタリア共和国 AD1475 両シチリア王国

 1475〜1564 イタリア=ルネサンス美術の最高の巨匠。レオナルド=ダ=ヴィンチと並んで二つの巨峰を形づくるが,その作風はきわ立って対極的である。フィレンツェ共和国の由緒ある家柄に生まれ,幼くして絵を熱愛し,13歳で同市の高名な画家ギルランダイヨ兄弟のもとに弟子入りする。1年たらずで同門を去るが,ときの支配者ロレンツォ=メディチに見出されて同家に引きとられ,そこに出入りする当代一流の文人・芸術家たちからさまざまの教えを受けるとともに,古代彫刻に深く傾倒して多くの学ぶところがあった。ここで受けた知的薫陶は単なる職人的美術家にとどまらぬ高い思想性を少年に与え,生来の激情的性格と相まって,ミケランジェロはルネサンス理想主義のしめす精神性を一つの極北まで登りつめる独自の情熱的表現を生みだしてゆく。レオナルドがその理想主義から,“調和性”の面を,端正に均衡のとれた空間の実現に結晶させたとするならば,ミケランジェロはルネサンス精神が開示した人間自由と生命の賛美を肉体を通じて極限まで理想化して表現しようとする。レオナルドの“静”に対するミケランジェロの“動”。前者が隈ずみまで均整のとれた調和的空間,永遠性を表す一種の理想空間を造型したとするならば,後者は人間の肉体と精神のもつあらゆる可能性,動いてやまぬ生命の動態の刻とを凝縮する一種の劇的な空間を生みだしてゆく。時代も動きつつあった。フィレンツェ共和国も最盛の時期をすぎて,1494年,峻厳な宗教者サヴォナローラが改革を訴えてメディチ家の支配を覆す。宗教心豊かな青年であったミケランジェロは,この改革者の説教に魂の震憾するような感銘を受ける。だがすでに『階段の聖母』『ケンタウロスの闘い』など優れたレリーフを制作して自らの才能を自覚しはじめていた彼は,芸術創造への衝動押えがたく,1494年,激動のフィレンツェを脱出,各地を転々とした末,96年ローマに仮の宿を得た。以後5年間そこに腰をすえた彼は,初期の傑作『ピエタ』を残す。この彫像は,幼くして母を亡くした彼の思慕を託したといわれるが,キリストを抱いて悲しみに沈む聖母の姿には,宗教的題材を借りながらそれを超えて,人類的悲劇の高みを遍く人に訴えるものがある。やがてフィレンツェが混乱と戦火をのりこえて共和制を回復,しばし安定しえたとき,ミケランジェロはふたたび故国にもどって,自由と独立を得たフィレンツェの人民のために,4年の歳月をかけて,巨像『ダヴィデ』を刻む。それはまさに,人体理想の完成の極致をとうしてルネサンス人間主義の精髄を誇らかに形象化するものであった。同じころ同地にあった,先達レオナルドがすでに壮年の成熟に達して,格調高い古典主義的完成をみせつつあったのと対比するとき,この気鋭の青年芸術家のみせたあり方は,躍動のルネサンスというもう一つの側面とともに,ようやく動きゆく時代を代表する一つの新しい精神の出現を人に予感させたのであった。そのレオナルドと彼は競作を命ぜられるのだが,構想を作品化するいとまもなく,法皇ユリウス2世に召されてローマに赴く。やがてシスティナ礼拝堂壁画の制作を命じられ,初めてフレスコ画に取り組んだ彼。1508年から3年の歳月をかけて,『ノアの洪水』などの力作を完成する。これは彫刻家が併せて絵画をも良くものしたといった態のものではなく,ルネサンスの子であるミケランジェロが,絵画・彫刻・建築を一体の綜合的造型ととらえる“万能の人”の理想をようやく実現する機会を得たということであろう。すでに法皇廟建設の構想などを手がけていた彼は,新法皇レオ10世の命で1516年,フィレンツェに赴き,メディチ家の廟朝改築を手がけ,自らの構想による内装に合わせて,『暁』・『夕』など4体の彫刻を祭壇に配して,建築と彫刻のみごとに融合した造型空間を出現させる。ついで3度ローマに出た彼は,1536年から6年半,畢生の大作であるシスティナ礼拝堂大壁画『最後の審判』に精魂を傾ける。中心に怒りのキリストを配したこの大群像は生涯をかけた彼の人体研究の集大成であるとともに,その激越なダイナミズムにおいて,すでにルネサンスをこえる予感を伝える。その4年後,すでに齢70歳を越える彼はサン=ピエトロ大聖堂改修の大作業に取り組み,業半ばにして倒れるが,死後完成された同寺の雄姿は彼の夢みた一大造型世界を今なおわれわれに目のあたりにさせてくれる。かたわら,死の1週間前まで刻みつづけた最後の『ピエタ』は,石の魂が慟哭するとでも形容するほかなく,その厳かな姿をとおして彼は壮絶な生の果てにゆきついた境地を遺言として語りのこしたということができよう。

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