●三浦氏 みうらし
アジア 日本 AD
相模国の御浦郡の郡名を負う豪族。高望王の系譜をひく桓武平氏の一流であるが,良茂系とする『尊卑分脈』にも混乱があり,最も古いと考えられる『源平闘諍録』の所伝も全面的には信頼できない。系譜として確実になるのは後三年の合戦に源義家に従って奪戦する為継(次)以降で,その子義次,孫義明は,1145年(久安1)に義朝の名代として大庭御厨に乱入している。早くから源氏の家人となっていたことがわかるが,このとき義次は三浦庄司であり,この三浦庄は摂関家領三崎庄の別名ともみられている。義明は相模介(三浦介)として相模国の雑事を勤めた。1180年(治承4),頼朝の挙兵に応じ,老齢の義明は衣笠城と運命をともにするが,その子義澄以下の一族は幕府の成立に貢献し,相模国守護職をはじめ,土佐・河内・奥羽などにも多くの所領を得,全国に拡大する。惣領は代々三浦介を称し,1213年(建保1),一族で侍所別当の和田義盛が討たれたときには,義村が北条氏にくみして存続するが,1247年(宝治1)の合戦で滅亡した。このとき三浦介泰村とともに法華堂で自害した一族は五百余人,うち幕府の番帳に記された者260人と伝えられている。幕府内でのその重要性を知りえよう。その後,奥州に所領を移して北条方となっていた一族の佐原盛時が三浦介の名跡をつぐが,守護職などは没収されて昔日の面影はない。南北朝期の時継,高継らの動きも,全国的な政治情勢にはほとんど影響を与えなかった。