●満州国 まんしゅうこく
アジア 日本 AD
日本帝国主義者が中国東北地方に樹立した傀儡(かいらい)国家。総面積130万平方kmで,奉天省・吉林省・黒竜江省の三省と,内蒙古の熱河省から成る。この地では古くから多くの民族が興亡したが,近代にいたっては,ロシアが進出してき,日本と衝突した。これが日露戦争で,日本はポーツマス条約により,南満州の租借権を得た。日本は満鉄(南満州鉄道会社)を中心にして,これより本格的に満州支配に乗り出し,国民政府との軋轢(あつれき)は増大した。日本軍部はついに武力によって満州を確保しようとし,1931年(昭和6)9月18日の夜,柳条溝の鉄道を爆破し,この満州事変を契機に,張学良軍を破り,全満州を制圧した。翌1932年3月1日に,清朝の宣統帝溥儀(ふぎ)を執政(元首)とし,首都を新京(長春),年号を大同と定め,ここに「満州国」が誕生した。日本政府は,事変不拡大を唱えながらも,軍の行動を追認し,同年9月に「満州国」を承認し,日満議定書を締結した。そのことで,日本は満州における権益を獲得し,関東軍司令官は駐満大使と関東庁長官を兼任した。リットン調査団は同年10月に,日本の軍事行動は正当な自衛手段ではなかったと報告し,このことで翌1933年3月に,日本が国際連盟から脱退することとなる。1933年3月,溥儀は皇帝となり,国号を満州帝国,年号を康徳と改めた。国務総理をはじめ,大臣や省長には満州国人が任命されたが,たぶんに名目のみで,実権は,その下にいる日系官吏と関東軍の手にあった。形式的には独立国であっても,関東軍の軍事支配下にある傀儡国であり,日本帝国主義の植民地であった。満州国軍は編成されたが日本軍の補助部隊にすぎない。日本帝国主義者は指導理念として,〈五族協和,王道楽土〉を唱え,また協和会なる団体をつくったが,日本人の優位は変わらず,差別的な支配を行った。1934年ころより日本の資本の投下は拡大され,1937年には満州重工業株式会社などが設立され,重工業の建設が推し進められた。自動車工場,車輌工場,通信機関の整備をはじめ,満鉄が全鉄道の経営を一手に握り,旅順―ハルビン間には,特急アジア号が走った。映画会社がつくられ,また首都新京は原野に壮大な都市計画に沿って建設された。撫順をはじめとする炭坑が掘られ,巨大な発電所が操業を開始した。しかし,これらの近代化は,現地の住民たちの搾取のうえに成り立ったのであり,栄養不良で死亡した労働者は,万人坑と呼ばれる穴に投げ込まれた。また,反満抗日運動は激しく執拗な弾圧にあい,投獄されたり虐殺された人は数え切れない。また,日本国内の恐慌への対策として,拓務省の指導による移民がすすめられ,1945年までに20万人を超えた。入植者の多くは,現地農民の開墾した土地を安価に買い上げ,ときには強制収用したため,中国人民の反感を招いた。1939年のノモンハン事変の前後から日ソ間の関係は厳しさを増し,満州の近代化と移民の増加はまた,ソ連に対する戦略的な意味も含まれている。このような背景にあって関東軍の増強が進められ,1941年,独ソ戦が開始されると,日本は100万の兵を満州全土に配置した。ハルビン郊外の平房には七三一細菌部隊が密かに配備され,そこでは中国人の生体実験までが行われた。
満州事変から1945年までの日中十五年戦争,それに太平洋戦争の勃発により,日本帝国主義者にとって満州は中国侵略の基地であり,対ソ戦略の拠点であり,日本総力戦の不可欠の環であった。戦争の拡大は現地住民の生活を圧迫し,中国共産党の指導を受けた八路軍などの抗日武装闘争は,弾圧にもかかわらず継続された。1945年8月,ソ連は対日参戦を宣告するや満州になだれ込み,関東軍は壊滅した。同時に各地で民衆は立ち上がり,満州国は完全に崩壊した。ソ連軍が撤退したあと,国共内戦(国民党と共産党の主導権争い)の舞台となり,1948年,中国共産党により解放された。中華人民共和国成立後はその国土の一部となった。現地に取り残された日本人移民は,その後中国残留孤児として,苦しまねばならなかった。
![]()