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●満州 まんしゅう

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国の東北地方。ここを発祥地とする清朝が太祖のときより地域・民族名として後金・女真に代わって用いたもので,後金・女真が中国や周辺諸国の人々に夷狄,侵略者として印象づけられていたので,これを一掃するため採用したもの。称の由来はこの地に広がっていた文珠菩薩(仏教では知恵を司り東方を鎮護する)信仰にもとづくものといわれる。19世紀以後,ヨーロッパや日本がこの呼称を盛んに用いたが,中華民国時代に東三省と呼ばれ,日本の傀儡政権である満州国崩壊後この名は廃された。

【風土】北側と東側には黒竜江・ウスリー江があって中ソ国境をなし,東南と南側には圖們江・鴨緑江があって中朝の国境を画している。これらの河川の内側には大興安嶺小興安嶺長白山地があって巨大な馬蹄形をなして広い東北平原を包んでいる。東北平原は沃野千里といわれ長さ850km,幅300〜600kmの肥沃な黒土をなしている。東北山地の森林地帯は,緑色の樹海がおおい,大興安嶺小興安嶺は針葉樹林,長白山地に下るに従って闊葉樹林が増す大陸性気候で冬は長く,北部で8カ月,中部で200余日を数える。冬の積雪量はさほどでないが,春まで根雪となって残るので雪どけ時期に洪水をおこすこともある。

【歴史】中国の古典『国語』に粛慎という未開の民族が住むと記されたこの地に中国人が初めて進出したのは,戦国時代のことで,戦火を避けて遼河下流域に移住し,これを討って燕が遼東郡などを置いた。漢代に武帝が衛氏の朝鮮を滅ぼし,楽浪郡など4郡を設けたので南満州の中国内地化は一段とすすんだ。以後,漢末の公孫氏の燕,三国時代の魏,ついで晋の時代と続くが,東胡・烏丸・鮮卑などの遊牧民族のために中国勢力は北満へは伸び得なかった。北満では原住民が中国文化との接触によって国家形成にすすみ,前漢末,松花江中流域に夫余,続いて鴨緑江北の山間部に高句麗がおこり,後者は4世紀遼東平原から中国勢力を駆逐し,朝鮮北部にまで勢力を拡げた。しかし隋・唐帝国が成立するとこの地の奪回が企てられ,唐の高宗は高句麗を滅ぼし,安東都護府を平壌から遼陽に遷し,遼東平原を支配下に置いた。一方高句麗の故地には大祚栄により渤海国が建てられ,唐・日本と友好関係を結んだが,10世紀契丹族の遼に滅ぼされた。渤海の故地の住民は女真と呼ばれ,遼の間接支配を受けたが,12世紀に完顔部阿骨打が出ると金を建て遼を滅ぼし宋を南に追ったが,ついにモンゴルに滅ぼされた。モンゴルすなわち元は満州と朝鮮北部に遼陽行省を置いた。元に代わって明がおこると,永楽帝のとき,その勢力は黒竜江下流域にまで達した。明は多くの衛を設け,女真の酋長に明の官職を与え交易を許した。しかし明の支配も15世紀半ばになると衰え,遼東方面を保つにすぎなくなり,建州女直海西女直としばしば対立した。16世紀末になると,この女真族は建州女直のヌルハチによって統一された。彼は後,金国を建て遼東に進出して奉天に都し全満州を支配した。次の太宗のときには国号を清と改めた。その後,清は中国を征服して北京を首都としたが,満州を発祥地として重視し,軍政を施くとともに当初は中国人の入植を禁じ,ロシアとネルチンスク条約を結び国境を定めた。しかし19世紀に入ると愛琿条約により黒竜江以北,北京条約によりウスリー江以東をロシアにとられ,日露戦争後は日本の侵略を受け,満州事変の後,満州国として日本の植民地となった。1945年,ソ連参戦とともに満州国は崩壊し,1948年11月,東北人民政府の成立により,以後中華人民共和国の東北地方として今日にいたっている。

【現状】現在の住民は東北部にオロチョン,ゴルジ,ソロンなどツングース系語族が少数いるほか,漢族,朝鮮族,モンゴル族などで,90%以上は漢族である。北部は肥沃な農業地帯,南部は中国最大の重工業地帯,東部山地は発電地帯・森林地帯をなす。主要都市は瀋陽・長春・ハルピン・旅大・吉林・鞍山・撫順などでいずれも人口百万以上の大都市である。